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教育業界にいたからこそ、「教育」という言葉を使いたくない。

2012年から2017年まで、僕は全国各地で教育サービスを手掛ける会社に勤務していた。

僕は新規事業の部署に所属していた。手掛けていたのは、学習者の習熟状況を理解し、学習計画改善を促すための「アセスメント」に関するサービス。ほとんどベンチャーのような小さな組織で、僕は商品企画やマーケティング、オペレーションなどを担っていた。

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当時の会社を退職したのは、6年前のこと。

色々な理由があって辞めたわけだが、辞めてからも「教育」という言葉には敏感に反応してしまう。そして、そのたびに小さくない違和感を抱いてきた。

どうやら、教育に対する思いが消えたわけではないらしい。だからこそ、「教育に対する思いが本当にあるのか?」と疑問に感じてしまうと、いかに良いものを生み出そうとしていても受け入れられない。「教育」という言葉を使った欺瞞のように感じてしまう。

僕の良くない思考特性のひとつだ。

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英語で教育は「education」だ。

諸説あるが、この言葉には「可能性を引き出す」という意味が込められているらしい。読んで字のごとく「教えて育てる」と表現する言葉とは、根本的な思想が違っているように感じてならない。

この時代に、誰が何を教えられるというのだろう。その教えは、その人の人生を好転する内容を秘めているのだろうか。

僕にとっての人生の師(と呼ぶ人たち)は、僕の可能性を存分に引き出してくれた。彼らは教育者とは限らず、そしておそらく、彼らは自身の行為を教育とは見做していなかったように思うのだ。

だから僕は、安易に教育という言葉を使わないようにしている。でも、教育という言葉を使っている人たちを否定はしない。前職の仲間は(もちろん当時の僕も含めて)、教育を通じて世の中を本気で良き方向に導いていこうとしていた。そういう方々は、現場を含め、日々試行錯誤しているのだと思う。

そんな方々に敬意を表しつつ、僕は僕なりのやり方で、何かをつくっていこうと思うのだ。どこかで、思いが交差する日を祈りながら。

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