ラムザイヤー教授の「従軍慰安婦」の論文の主張ってどんな内容なの?
議論を呼ぶラムザイヤー教授の論文
いわゆる「従軍慰安婦」問題について、ハーヴァード大学のラムザイヤー教授が発表した論文が議論を呼んでいますが、一体どのような内容なのでしょうか。
その全文は、次のリンク先で見ることができます。
https://news.yahoo.co.jp/byline/takeuchikan/20210225-00224442/
私はこの分野の専門家でも何でもありませんが、ラムザイヤー論文を自分なりに読んでみたところ、一応何を言わんとしているかくらいは理解できたように思いますので、以下、主だった論点を整理してご紹介することにします。
なお後述のとおり、ラムザイヤー教授は歴史学者ではなく、「法と経済学」という法学と経済学にまたがる分野の研究者です。
ラムザイヤー論文の主張の中核の部分
主張の中核的な部分を要約してみると、おおむね次のとおりでしょう。
①当事者の女性たちは職探しをしており、売春という性的な「仕事」も、その選択肢の一つであった。基本的には、他の仕事よりも収入が良いので女性たちが自分の意思で選んだものである。
②女性たちと業者とは、交渉のうえで契約を締結していた。
③女性たちから見れば
・業者が労働条件について女性をだましたり約束を破るリスク(例えば本来の契約よりも低い賃金)
・仕事柄、世間の自分に対する評判が下がる不利益
があった。
(★ここでラムザイヤー教授が検討しているのは、「売春する場合の労働条件についてだますリスク」であって「仕事内容そのものについてだますリスク」ではないことに注意してください。)
一方、業者から見れば、女性たちが怠けたり逃げたりするリスクがあった。
④以上を反映して女性たちと業者が交渉した結果、前払金が支払われ、契約期間は一定の限定された期間で、さらにこれに加えて、客を喜ばせて指名してもらえるようになった場合はインセンティブ(奨励金)がもらえる・・・という内容の契約になった
⑤国内の売春業の場合、業者が契約に反すれば、女性は逃げ出したり、警察に申し出たり訴訟を提起することができた。
だが戦地の慰安所の場合、そういうことがほぼできないことに加えて、戦場自体の危険があった。
⑥従って戦地の慰安所の仕事は、そういう危険や不利さを反映して、女性と業者との合理的な交渉の結果、国内よりも高い前払金が払われて、なおかつ契約期間がもっと短い契約となった。
…というものです。
女性たちは自分の意思で交渉契約?
まず①の「売春も女性自身の意思」や②の「女性たちは業者と交渉して契約した」という主張に、いきなり違和感を感じる人が多いでしょう。慰安所に限らず一般に売春業の分野については、「貧しい親が前払金をもらって、泣く泣く娘を業者に売ったケースもあるのではないか?」などという疑問が出てくるところですが、ラムザイヤー論文は、そのようなケースは稀だったと推測しています。
なぜかというと、仮にそのような身売りのケースがあったとすれば、娘は逃げ出して、業者が親を訴えるはずだが、そのような事案は少なかったからだ、というのです。(原論文2.2)
このような理由付けに説得力があるのかどうか、私にはわかりません。
前払金は借金が理由ではなかった?
次に④の「前払金」については、「女性(やその親)が金銭的に困っていて、業者から金を貸してもらい、その返済のために慰安婦の仕事をさせられたということではないか?」という疑問も誰もが思いつきそうですが、ラムザイヤー教授は、「借金をした事例もないわけではないが、それが前払金を払った理由ではない」と考えています。
なぜかといえば
(ア)売春以外の労働契約でも金を前借りした例がたくさんあって良さそうだが、そのような例は少なかった
(イ)前払金が売春で採用されたすべての女性に支払われていた
…からだというのです。(原論文2.2の2(b))
特に後者の(イ)の点は、ラムザイヤー教授の見解としては
「仮に前払金が借金なのだとすると、金銭に困ってお金を借りたかった女性やその親だけに前払金を貸し付けていたはずであり、前払金を受け取らない女性も多数いなければおかしいはずである。だが実際は、すべての女性に前払金を支払っていた。つまり前払金を支払ったのは、女性側が借金をしたかったからではなく、別な理由である」
ということで、上記のリスクに対応するため女性が交渉した結果、多額の前払金が支払われる契約になった(これが「別な理由」)と考えているようです。
(素人考えでは、貧しくてお金を借りたい女性ばかりが大勢集まってきたら、ラムザイヤー教授の主張は崩れてしまうと思うのですが、ここはどうなのでしょうか。)
さらに⑤⑥の部分では、この論文が非常に強い仮定を最初にもってきていることがわかります。それは「女性たちは、自分たちがどのような仕事をさせられるのか、十分な情報を把握できていた」という仮定です。
「仕事の内容を正確に理解していた」というのがすべての主張の土台だが…
ラムザイヤー教授は、「女性たちが、戦地の慰安所で勤務させられることは正確に理解し把握していた」ということを前提にして、すべての議論を組み立てています。
業者が女性を騙すリスクについても触れていますが、それは賃金などの労働条件(契約の条件)について騙すリスクに限られており、仕事の内容そのもの(=性行為)については騙されていなかったという仮定がすべての出発点になっています。
わかりやすく論証の構造を示すと
(a)女性たちは自分たちがどのような仕事をさせられるのか、十分把握して情報を得ていた
(これは前述のとおり、仮定というか前提条件と考えるほかないでしょう。この仮定が変われば、すべてが成り立たなくなります。)
(b)戦地の慰安所の仕事の契約は、国内の売春宿よりも高い金額の前払いがあり、より短い契約期間だった
(この主張がそもそも事実だったのかどうかわかりませんが、ラムザイヤー教授はこれを歴史的な事実として扱っています。論文だけではわからないので、ここは史料による歴史研究者の検証が必要でしょう)
(c)(a)を前提として考えると、(b)は、戦地の危険などを反映して女性たちと業者が合理的に交渉した結果として説明できる
・・・という形になっています。
騙された事案についても中途半端に触れている?
それでは、女性が騙されて売春の仕事に入れられたようなケースに一切触れていないのかというと、そういうわけでもなく、ラムザイヤー論文では、朝鮮で売春の採用業者が若い女性多数を「工場の仕事を見つけてあげる」などといって騙して海外に送り出した事例などを取り上げています。(原論文2.4の2.)
その後、ラムザイヤー論文は唐突に
「政府が女性に強制的に売春をさせたわけではない。日本軍が不正な採用業者と協力したわけでもない。採用業者が軍の慰安婦に特化していたということですらない。そうではなく、何十年も若い女性を騙して売春宿で働かせてきた現地の朝鮮人の採用業者が問題にかかわっていたのだ」
と語るのですが、この部分は何の参照文献も根拠の説明もないまま、ただ単に「政府や日本軍の不関与」「朝鮮の採用業者の不正」という結論だけを強調しており、無理に後から文章を差し込んだような不自然さを感じます。
さらに不自然な点としては、このように実際に多数の女性が騙された事例であれば、女性たちは仕事について正しい情報を与えられていなかったわけですから、「合理的な契約交渉」論が成立しなかった例証になるはずですが、ライムザイヤー論文ではこの問題にそれ以上深入りすることなく放置し、結局は、「女性がどういう仕事をさせられるのか正しく理解したうえで契約の交渉をした」という議論をそのまま進めてしまっていて、前後のつながりがおかしくなっています。
「正しく理解して自由な意思で契約」は結論ではなく仮定
最後にまとめると、まずラムザイヤー論文では、「女性たちは自分たちがどのような仕事をすることになるのか、正確に理解したうえで、自分の意思で業者と契約交渉をした」という点は、そもそもの議論の出発点となる仮定というか前提というべきであって、新たに立証された事実というわけではありません。
「ラムザイヤー論文によって、女性たちは仕事について正確に理解して自分の意思で契約交渉をしたことが明らかになった」というわけではないことに注意が必要です。それは結論ではなく、あくまでもラムザイヤー教授が議論の出発点とした前提・仮定にすぎないと見るべきです。
そもそも歴史的事実についての主張はどこまで妥当なのか?
さらに歴史的事実についての話として、前述のとおり「政府や軍は関与していなかった」という主張や、さらに「戦地の慰安所の慰安婦は、国内より高額の前払金を受け取り、より短い契約期間だった」「国内の売春業者が不当な労働条件だったら、女性は逃げ出して警察に申し出たり訴訟を提起することができた」などという主張がどこまで妥当なのかが問題となります。
これらの点は、この論文が十分な根拠を示しているのかどうか、素人の私でも疑問が感じられるので、ここは歴史研究者の本格的な検討が待たれるところです。
最後に
最後にいうと、ラムザイヤー教授は歴史学者ではなく、「法と経済学」という分野の研究者であり、これは経済学の一分野とされています。
経済学は、人間が一定の行動をすることを仮定してモデルを作り、そこから様々な派生的な結論を導くというパターンの議論を行うものだと思いますが(例えばミクロ経済学の「消費者は効用を最大化するように行動する」という仮定)、この論文も、そういう意味で一定の仮定をおいたモデルを作り、そこから導かれる議論を論じて見せたというだけのことであって、別に何かの歴史的事実を解明したわけでも何でもないのではないでしょうか。
よろしければお買い上げいただければ幸いです。面白く参考になる作品をこれからも発表していきたいと思います。