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「天皇」について考えてみる(2) 実は私たちは過去に天皇だったかも?

(写真は崇徳上皇ゆかりの白峰宮:ウィキメディアコモンズより:Dokudami [CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)])

 いきなり不思議なタイトルになりましたが、今回は「天皇」と日本人の宗教観の一つの例をちょっと考えてみました。

天皇と神話と一般人

 いうまでもなく天皇家には、天照大神の子孫という神話があります。最近でもNHKが、前の天皇(現上皇)が伊勢神宮に退位の報告に参拝したときに、「皇室の祖先の天照大神…」という言い方をして、まるで神話をそのまま事実として扱っているかのようだとして問題になったことがありました。

 とりあえず現代の価値観はいったんおいて、この神話の世界を前提にすると、天照大神の子孫ともなれば、天皇は一般の人間とは完全に隔絶した存在で、越えられない壁があるように思えてきます。

天皇も我々一般人もいっしょ?

 ところが、近現代ではなくはるか昔の中世に、天皇も我々一般人も本質的には同じで、それどころか我々もかつては天皇だったかも知れないなどという考えがありました。

『撰集抄』という書物

 一体何のことだか訳がわからないかもしれませんが、ここで一冊の書物を紹介しましょう。それは鎌倉時代に作られたとされる『撰集抄』という本です。これは有名な歌人の僧侶・西行法師が自分の体験した様々なエピソードを語ったという内容の書物ですが、実際には西行自身が書いたのではなく、後世の人間が西行になりきって書いた作品だと考えられています。

西行と崇徳上皇の墓

 さて、西行法師は崇徳上皇に仕えていたことがありましたが、その崇徳上皇は保元の乱であの後白河天皇と争って敗れ、讃岐(香川県)に流されてそこで亡くなります。

 この『撰集抄』の一エピソードで、西国を修行して回っていた西行は、讃岐の白峰という場所にやってきて、そこで崇徳上皇の墓を見つけます。

 西行は、かつて宮廷で天皇として多くの役人や女房を従えていたこともあった崇徳上皇が、今では人も来ない山の中の墓に眠っているのを見て、涙を流し、人間の栄華のはかなさをしみじみと感じます。

天皇も輪廻転生から逃れられない

 そして「始めがあるものは終わりもあるとは聞いていたが、いまだこんな例は聞いたことがない。天下の主であった天皇もこうなってしまう。王侯も賤民も変わらない。高い地位も願わしくはない。我々も、前世で何度も天皇であったことがあったかも知れないが、時を隔てて忘れてしまい、覚えていない。仏の位こそが願わしい。」などというのでした。

 つまり運命のはかなさの前では、天皇も身分の低い民も同じであり、仏教のいわゆる輪廻転生からは天皇であっても逃れることはできず(つまり、一般人も前世では天皇だったかも知れない)、成仏してこの輪廻から逃れることこそが望ましいという考えられているわけです。

 このように仏教的な考え方は、天皇の権威も相対化してしまう働きがあったといえるのではないでしょうか。天照大神の子孫であっても、無常や輪廻転生の運命は一般人と同じで、没落することもあれば、一般人に生まれ変わってしまうこともあるというわけです。

 なおこの『撰集抄』のエピソードが、後の江戸時代の『雨月物語』のもとになっています。そこではお墓参りをした西行の前に崇徳上皇の亡霊があらわれるのですが、『撰集抄』では亡霊までは登場しません。

よろしければお買い上げいただければ幸いです。面白く参考になる作品をこれからも発表していきたいと思います。