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「ディープな維新史」シリーズⅠ 厚南平野の怪❷

厚南平野の怪❷

歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

妻崎神社の社殿(令和元年8月)


毛利斎熈(もうりなりひろ)と妻崎神社
妻崎神社(宇部市妻崎開作に鎮座)の由来は、明治26(1893)年4月21日付で記された『妻崎神社再建及紀念碑新設ニ付 御補助金額書 同鎮守記録帳写』(山口県文書館蔵)に詳しい。
タイトルが長いので以下、『妻崎神社再建記録帳写』と略すが、まずはこれを読んでみる。

『明治二十六年四月廿一日 妻崎神社再建及記念碑新設ニ付 御補助金願書同鎮守記録帳写』(山口県文書館蔵)

書き出しは、「清徳 忠正 両公ノ御思召ヲ以開拓被遊…」だ。 
ここに見える「清徳」とは第10代藩主の毛利齋熙(もうりなりひろ)のことだ。

そして「忠正」とは第13代藩主の毛利敬親(もうりたかちか)のことである。 以下を現代語に訳せば、文化14(1817)年に10代藩主の毛利斎熈の命により内藤万里助、佐世新右衛門、林藤右衛門ら撫育方をはじめとする役人が任命され、妻崎の開作がはじまっていた。 

その際、現在の妻崎神社の社殿裏手の堤防(石垣の場所)に「開墾成就御祈願ノ為」、安芸の宮島から厳島神と周防西ノ浦から少童大神(わたつみおおかみ)を勧請していた。これが妻崎神社の始まりだったらしい。

厳島神は海神である。

また、防府市西浦にあたる「周防西ノ浦」には撫育方により造られた塩田があった。そこに祀られていた少童大神も勧請したのだ。

妻崎開作は、「周防西ノ浦」をモデルにした撫育開作だったように見える。

こうして翌年の文政元(1818)年に、妻崎神社の社殿が来上がるわけだ。 

現在の社殿の南正面入り口には、文政2(1819)年5月に当職の堅田宇右衛門と当役の児玉三郎右衛門が寄進した石鳥居が建つ。社殿が完成した記念に奉納されたものだ。

 「開墾事業中 関係ノ吏員ハ勿論 地民一同一日モ祈願無怠鍬初祭潮止祭等 総テ此神社ニ於テ御執行被為在タル次第」(『妻崎神社再建記録帳写』)

 工事関係者や地元民も工事中は一日も怠ることなく、鍬初祭や潮止祭など、妻崎神社で祈願していた様子がわかる。開作成就のための守護神だったのだ。 

しかも面白いのは、「此社ノ御神体ト申ハ澤瀉(おもだか)御紋ノ明鏡ニシテ 清徳公ノ御寄附ナリ」と記されていることだ。

ご神体は毛利斎熈が寄進した鏡だったわけである。

しかも毛利家が本紋としていた「澤瀉(おもだか)」紋が入るほどの熱の入れようだ。

ほかにも「神器祭具モ悉皆 清徳 忠正両公ノ御寄附ニ拘ルモノ」と見える。

毛利斎熈や毛利敬親が寄進した宝物がかなりの数あったのだろう。

 もうひとつ、『妻崎神社再建記録帳写』に、厚南区の竹ノ子島に鎮座する恵比須神社についても触れられているのが興味深い。

 妻崎開作が完成した後の安政6(1859)年の潮留から、妻崎新開作の工事が始まった際に、忠正公こと毛利敬親が「竹ノ小島ヱ遥拝處ヲモ御建立」したという。 

当時はまだ海に浮かぶ小島でしかなかった竹の子島に設けられた「遥拝處」こそが、後の恵美須神社だ。

 長州藩は万延元(1860)年2月に長崎の商人・久松善兵衛を通じて外国に石炭輸出を決定していた〔※1〕。

 恵美須神社には妻崎新開作が成就したその年に奉納された石燈籠や手水鉢などが残されている。山口県文書館には「広報写真」として妻崎新開作から妻崎開作を一望する風景写真が所蔵されている。
〔※1〕『転換期長州藩の研究』271頁。

妻崎新開作〔手前〕と妻崎開作〔奥〕(山口県文書館蔵)


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