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「ディープな維新史」シリーズⅥ 禁断の脱隊兵騒動❷ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

出世した人・しない人


宇部護国神社の石段前に据えられた西村有友の歌碑の裏に、慶応元(1865)年1月のころに福原家臣の馬屋原彦右衛門(山崎彦右衛門)が率いて奇兵隊に入隊した宇部兵12名と生雲兵5名の合計17名の名が刻まれている。
 

奇兵隊入退者の名前が刻まれた西村友信の石碑の裏側(平成27年11月)


その宇部兵の中に「大野梅太郎 直忠」の名がある。『復刻 宇部先輩列伝』によると佐々木向陽門下の福原家家臣・大野修内の息子で奇兵隊に入隊していた人であった。

大野梅太郎ら8名の宇部兵が慶応元年2月3日に奇兵隊に入隊したときの記録(『定本 奇兵隊日記 上』)


実は、この大野梅太郎にまつわる興味深い話が山田亀之介の『宇部郷土史話』(「第四篇 明治大正の宇部」)に出てくるのだ。大野は脱隊兵騒動の鎮圧側に回ったひとりだったのである。
 
奇兵隊入隊後の大野は戊辰戦争で越後口の戦いに従軍し、明治2(1869)年9月に兵部省に抜擢されて伏見練兵場で訓練中だったという。ところが山口藩で脱隊兵騒動が起きたことで鎮圧のために帰郷するのである。
 
その後、明治3(1870)年2月9日に小郡の新庁や本郷で脱隊兵と戦い、夕暮れに三田尻に移動し、夜は光宗寺(現、防府市伊佐江町で航空自衛隊防府基地の北に隣接)で作戦を練るなど奔走した。

脱隊兵騒動で鎮圧のための作戦会場となった防府の光宗寺(令和4年6月撮影・防府市教育委員会教育部文化財課提供)


翌10日、大野たちは夜明けと共に佐波川を渡り、江良村(現、防府市大崎江良)で脱隊兵を討った。
 
そして11日も明け方から進軍して、吉敷郡小鯖村(現、山口市小鯖)、柊村(現、山口市下小鯖柊)、長野村(現、山口市大内長野)、氷上村(現、山口市大内御堀氷上)、御堀村(山口市大内御堀)を突破し、山口藩庁(旧山口城)に入って毛利元徳を警護したのである。
 
一方で、宇部領主の福原芳山のイギリス留学中に福原旧家臣を預かっていた石川欽輔にも山口への召集命令が出され、彼もまた宇部兵を率いて脱隊兵の鎮圧にかかった。しかし宇部兵の動きはすこぶる鈍かった。家臣の中で意見がわかれ、全員出動ではなく2小隊のみが山口へ向かうことになったからだ。しかもわざと道に迷ったり、小休止したりで、本気で戦う意欲が無かった。実際、小郡に着いたときは血の海で、ムシロに覆われた遺体も転がり、山口に着いたときは、すでに戦いは終っていた。
 
宇部兵はその後、脱隊兵の処刑場になる柊の警護を行うが、やはり消極的な行動に始終した。
 
やる気がない理由は明白で、かつての仲間を討ちたくなかったからだ。
加えて、直接判断を仰ぐべき領主の福原芳山がイギリスにいたからでもあった。自主的な判断で、昔の仲間を討つなど、無理な要求だったのである。
 
こうして脱隊兵の鎮圧を積極的に行った大野梅太郎が陸軍歩兵中尉に出世したのに対し、戦意のない宇部兵を率いた石川欽輔は出世しなかったわけである。『宇部郷土史話』には、この時の対応のまずさを「木戸公に睨まれて出世が出来なかったのだ」と、後に石川欽輔本人がグチっていた話が紹介されている。明治維新に勝利した長州藩でありながら、宇部が維新後の社会から取り残された原因ともいわれる出来事だった。



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