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「ディープな維新史」シリーズⅧ 維新小史❶ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

「維新館」の意味


本州最西端に位置する山口県は、かつての長州藩であり、私の住んでいる宇部市は、幕末の禁門の変で、福原越後と国司信濃の2家老を犠牲にした明治維新の出発点だった。維新の震源地である。
 
実際、維新革命のための学問所が、上宇部中尾の福原邸跡(福原史跡公園)近くに造られていた。今、その近くに建つ「維新館址」の石碑が、往時の革命学校の存在を示している。

福原邸(宇部市上宇部中尾・平成22年4月)
「維新館址」の石碑


「維新」という言葉は、『詩経』(巻六)の、「周(しゅう)旧邦(きゅうほう)と雖(いえど)も、其(そ)の命(めい)維(これ)れ新(あら)たなり」というフレーズに由来していた。
 
中国の周という国は古い国だが、天の定めは新たらしい、という意味である。
そんな「維新」の語感については、『大漢和辞典 巻八』が、「旧弊を一洗して革新すること」と語るように、実際に体制変革の意識が内包されていた。したがって幕末の長州藩では討幕を意識した言葉として使われており、その意味では「維新」は、徳川幕府に逆らう、体制批判の言葉だった。
 
面白いことに、前出の維新館で教科書として使われていた『詩経』が、宇部市学びの森くすのきに所蔵されており、「維新館印」の朱印まで捺されている。

維新館印のある『詩経』〔巻六〕(学びの森くすのき蔵)

正確には、本来の維新館の場所は「維新館址」の石碑の位置から少し離れた松本良雄さん宅の場所に建物があったと伝えられている(松本家は戦後入って来た家)。今でも隣接地に丸い穴の開いた石柱が残るが、もしかすると、それが維新館当時の遺物かも知れない。

 今、「維新館址」の石碑の裏を見ると、「維新館ハ邑主福原越後公夙ニ王政復古ノ実現ヲ期シ元治元年四月此地ニ設立サレタル黌舎ナリ」と刻まれている。

 元治元(1864)年4月に、それまでの福原家の学問所「菁莪堂」を山口明倫館の建設に対応してリニューアルして出来た、新たな洋式兵制のための福原家の学校だったのである。 

石碑自体は昭和3(1928)年11月に福原越後遺績顕彰會が建てたもので、「維新館」が出来て64年後のことであった。

 おそらく当時は、「維新館」で教育を受けた福原家臣の生き残りが、かなりいたであろう。したがって元治元年4月に「維新館」が開設されたという記述は信用できよう。 加えて「維新館址」の石碑は、昭和天皇即位の御大典記念として建てられていた。神原公園の福原越後の銅像の建立除幕とセットの記念碑だったのである。

 ところで福原越後の銅像といえば、宇部市では宇部護国神社境内に福原越後公の銅像があるくらいだ。これは野村宮司が奮起して、平成22(2010)年11月に再建したものである。

宇部護国神社で再建除幕された福原越後像(平成22年11月)

こちらも昭和19(1944)年の金属供出で神原公園の銅像が失われてから66年ぶりの再建だった。 この福原越後像が再建された宇部護国神社も、もとは維新招魂社と呼ばれていた。 

そもそも鎮座地がイシン山という名で、郷土史家の山田亀之介は『宇部郷土史話』(148頁)で、「思うにこのイシン山という名は古くからあった。風土注進案に〈意信山二町五段〉とあるのも此の事であろう」と述べている。 

すなわち維新館の「維新」の精神にふさわしい音を持つ「イシン山」に、わざわざ福原越後を専用に祀る招魂社として崩山招魂場、すなわち維新招魂社を造営していたことになる。そして討幕のために散華した「禁門の変」での家臣団もまた、ここに祀られたのである。

維新招魂社跡(現在は宇部護国神社になっている)(令和2年8月)

 「維新」は全国区の言葉になっているが、その言葉の発祥地のひとつも宇部にあったわけである。




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