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「ディープな維新史」シリーズⅢ 維新の真相❹ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

神となった福原越後


幕藩体制下で国賊として処刑された福原越後が琴崎八幡宮に神として祀られたのは慶応元(1865)年5月16日であった。

 福原越後着用の甲冑(宇部市学びの森くすのき蔵)

その事実が『維新招魂社縁記』(「維新招魂社年代沿革記」)に以下の記述として見える。

 「慶応元年乙丑(いっちゅう)五月十六日 爰(ここ)ニ初メテ神霊(しんれい)ヲ仮(か)リニ琴崎神社(ことざきじんじゃ)エ勧請(かんじょう)シ 萩椿郷神社ノ祠官(しかん)青山下総ヲ招聘(しょうへい)シ祭典ノ禮(れい)ヲ行フ 祭主ハ嗣子(しし)福原五郎(ふくばらごろう)也」

青山下総とは青山上総介の変名で、後に靖国神社の初代宮司となった青山清にほかならない。

 政治犯を采地の神社に祀ることはご法度の非合法活動だったので、わざわざ変名を用いたのだ。

この招魂祭は、紛れもなく討幕意識を内包した徳川家に対する敵対的儀式であった。

 一方で平成27(2015)年4月に下関市の桜山神社が市の文化財に指定され、日本で最初の招魂社というニュアンスで公表された。 

下関の桜山神社(慶応元年8月6日)

しかし実際は、宇部での福原越後の合祀より3ケ月遅れの慶応元年8月6日であった。

実は下関でも青山清(青山上総介)が招魂祭を行っていたことが『白石正一郎日記』によって確認できる。

 すなわち、その日(慶応元年八月六日)は社殿落成の日で、奇兵隊士を神として祀った最初の招魂祭の日であったのだ。

 『白石正一郎日記』によれば、現在の赤間神宮が当時はまだ阿弥陀寺と呼ばれていた時代で、ここに山県狂介(山県有朋)と三好軍太郎が赴き、白石正一郎邸では青山上総介(青山清)が招魂祭用の祝詞を書いたとしている。 

やがて大賀郁介が来たので、昼食を早めに済ませた白石は青山たちと桜山招魂社に向かう。

程なくして奇兵隊が吉田の陣を出発。

 彼らは五軒屋で休息をとり、隊を整えて桜山招魂社を目指した。

 青山、白石、大賀、長野与太郎、そして社人2人が完成したばかりの社殿に入る。 

白石は奇兵隊惣管の高杉晋作の所に行き、祝詞を確認した後、高杉から借りた鎧直垂姿で惣管に代わって神事奉行として献供した。

 大賀と長岡(奇兵隊士の長岡与吉か)は献供官で、青山が祝詞師であった。

 以上が『白石正一郎日記』の8月6日の概略である。 

一方で、『高杉晋作全集 下巻』(「詩歌」)には、「八月六日、招魂場祭事、興奇兵隊諸士謁之、此日軍装行軍、如出陣」と題して、高杉晋作のつぎの漢詩が見える。 

〈猛烈の奇兵 何の志す所ぞ 一死を將(も)って邦家に報いんと要す 欣ぶべし名遂げ功成るの後 共に招魂場上の花と作(な)らん〉 

白石正一郎をはじめ、山県有朋や高杉晋作など歴史に名高い面々が登場していて華々しい内容だ。

 しかし、だからといって桜山招魂社を日本で最初の招魂祭社とする理由にはならない。

 すでに見たように琴崎八幡宮への福原越後の合祀(招魂祭)は、これより3ケ月も前だったからだ。

しかも両神社ともに青山上総介(青山清)が関わっていた。 

さて、宇部における福原越後の神霊は、その後、慶応2(1866)年11月19日に維新山に建設された維新招魂社に、慶応3(1867)年12月5日に琴崎八幡宮から遷されている。 

これが現在の宇部護国神社につながるのである。

 重要なことは招魂社の場合、祭神が神として祀られた時期が創祀ということだ。

 宇部護国神社は福原越後の神霊が琴崎八幡宮に合祀された慶応元年5月16日に創祀されたことになるわけだ。

これが桜山招魂社の創祀より3ヶ月も前だったので、 私は下関市が桜山神社の一部を市の指定文化財にした直後に、宇部護国神社の文化財指定を宇部市教育委員会に申し入れたことがある。

 だが、そのときは慶応元年5月16日の招魂祭の日を示すものが『維新招魂社縁記』しかないことを理由に却下された。

 実はそれから徹底的に調査を行ったのである。 

すると既述のように『宇部村史』にも「越後公薨じ慶応元年五月十六日 同家は其の霊を仮りに琴崎神社に合祀す」と記録されていた。

 あるいは山田亀之介も『宇部郷土史話』で「慶応元年五月二十六日を以て公の霊を琴崎神社に合祀することを許され、其の八月十日には藩から越後罪状焼棄の命があった」と記していた。

 さらには『靖国神社百年史 資料篇 下』も「宇部護國神社」に以下の説明をしていたのである。

「旧名維新招魂社・厚狭中宇部招魂社。慶応元年五月十六日、福原五郎が創立し、禁門の変の殉難者二二名を祀つた。明治十年九月、官祭招魂社」

 まだある。

一次資料としては、山口県文書館蔵『諸臣事蹟概略』の「福原越後」の記述である。 

『諸臣事蹟概略』には「同(元治)二年乙丑五月十六日 その霊崇(すう)じて神と為す 鏡剣幣帛を以て祀り 爾来例歳 八月念八(八月二八日)霊を以て祭日と為す」とある。8月28日は越後の誕生日

「同二年乙丑五月十六日 その霊崇(れいすうじ)じて神と為(な)す 鏡剣幣帛(きょうけんへいはく)を以て祀り 爾来例歳(じらいれいさい) 八月(ねんぱち)念八を以て祭日と為す」

 ここに見える「同二年」は元治2年、すなわち慶応元年のことだ。

意味については、(琴崎八幡宮で)鏡と剣と幣帛で招魂祭を行い「神と為」したことで、以来、福原越後の誕生日の「八月念八」、すなわち八月二八日を例祭としたという内容である。 

同じく一次資料として、山口県文書館所蔵の『益田親施年譜 国司親相家譜抜書 福原越後履歴書』の「福原越後大江元僴履歴書」の記載もある。

これも前掲『諸臣事蹟概略』とほぼ同じで、以下の文言であった。

 「仝二年乙丑五月十六日 祟其霊為神 祀以幣帛鏡剣 爾来毎歳以九月二十八日為祭日 公誕辰ナリ」

 したがって『維新招魂社縁記』を含めると、慶応元年5月16日に福原越後が琴崎八幡宮に神として祀られた証拠は実に6例もあり、もはや疑いようのない事実である。 

以上により、下関の桜山招魂社が日本で最初の招魂社でないことは明白で、これに先行する宇部護国神社は極めて価値高い明治維新史跡である。

宇部市にはぜひとも文化財指定を行って欲しいものである。



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