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「ディープな維新史」シリーズⅤ 攘夷と開国❹  歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

「萩の変」と頭山満


福岡はよく訪ねる地で、大好きな場所のひとつである。
とはいえ、そんな私も穴観音を初めて訪ねたときには胸が高鳴った。
市街地の天神から4キロばかり南になろうか。福岡市南区寺塚である。
やたら坂の多い場所に建つ興宗禅寺(曹洞宗)の入口近くに「穴観音」と書かれたプレートが貼られていた。

福岡市の興宗禅寺(平成29年4月)


どうやら、その一帯に、かつて多くの古墳があったようだ。
そんな古墳群も、福岡城築城の際に石垣として使われてほとんど壊されていた。
興宗禅寺の中にある「穴観音」は、その残留物のひとつだった。
正体は古墳時代後期(6世紀)の円墳の一部である。
正面の本堂に向かって右手の級内石段を登ると祠が現れ、さらに前方に暗い穴が口を開けていた。
なるほど古墳の石室の風情だ。

興宗禅寺の「穴観音」内部(平成29年4月)


わざわざ訪ねたのは、長州の「萩の変」から半年を待たない明治10(1877)年3月に、西南戦争と呼応した「福岡の変」の決起密談が、そこで行われていたからだ。
首謀者は旧黒田藩士の越智彦四郎と武部小四郎。
 
小倉鎮台分営の福岡城を攻撃して武器弾薬を奪い、福岡県庁を襲撃して軍資金を補充し博多湾に停泊している政府の軍艦を掠奪して大阪に向かい、明治維新をやり直すという計画だった。
 
だが、間もなく捕らえられ、5月には越智、武部、加藤堅武、村上彦十、久光忍太郎たちが斬罪に処された。
 
懲役3年以上10年以下は22名で、懲役1年が65名などの処罰が下り、戦没者は80名あまりにのぼった。
 
彼らの新政府転覆プランは失敗に終わり、西郷隆盛の西南戦争も9月には幕を閉じたのだ。
 
ところが同志うちで、生き残った面々がいた。
頭山満や進藤喜平太たちである。

頭山満(『頭山満翁写真伝』)

彼らは前年の前原一誠の「萩の変」に連座したことで獄に繋がれ、「福岡の変」に参加できなかったのだ。このため、逆に命拾いをしたのである。

「福岡の変」のとき、頭山たちは山口の獄に繋がれており、西南戦争の終結をもって釈放されていた。

そこで海の中道に向浜塾を立ち上げ、これが後にアジア主義を標榜する有名な玄洋社に成長するのである。 

なるほど『新潮日本人名事典』は頭山満を「明治―昭和期の国家主義者」と述べている。だが、そんな簡単な言葉で語られるような人物では、むろんなかった。

辛亥革命を突き進む孫文への援助やフィリピン独立運動、日露戦争でのゲリラ部隊「満洲義軍」の創設、日韓合邦(併合)の推進など、長州閥の裏には必ず玄洋社や頭山満の名が見える。

 そんな近代史の人気者の頭山が、実は「萩の変」の生き残り組で、前原一誠を生涯尊敬していたことを知る山口県人も、今ではほとんどいなくなった。山口県でその程度なので、福岡県人にも、その事実はあまり知らないはずである。

私は「穴観音」に参った後に博多区の崇福寺を訪ねた。福岡藩主黒田家の菩提寺でもある崇福寺に、旧黒田藩士だった頭山満たちを葬る玄洋社墓地もあったからだ。もちろん頭山満の墓もある。

崇福寺の玄洋社墓地に鎮座する「頭山満先覚之墓」(平成29年4月)

ここに来ると、玄洋社が旧黒田藩士たちの魂の郷里であったことを肌で感じることができるのだ。福岡に訪ねた時は、よく立ち寄る場所だが、そこには挫折した「攘夷」からリニューアルされた「アジア主義」の光がある。しかも、いつ来ても清々しい空間なのである。




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