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「ディープな維新史」シリーズⅠ 厚南平野の怪❺

厚南平野の怪❺

歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

久保田吉之助の過去帳


久保田吉之助の自刃とその後が記録された『過去帳 第五』(浄念寺所蔵)

宇部市西岐波下片倉で「片倉温泉くぼた」を経営する久保田克秀さん(昭和29年生まれ)の祖先のひとりである久保田吉之助もまた、幕末に棚井村の浄念寺で自刃していた。
 
久保田家のルーツは厚東氏一族(中世の地方豪族)である。
片倉一帯の旧家は久保田家に限らず、北向き地蔵の入口の本増田(ほんましだ)家(増田博さん宅)も、上片倉の西野さん、松永さんや村田さんの家も、いずれも厚東の浄念寺の門徒だ。
 
これらの家々に共通して伝わるのが、大内氏に追われた厚東氏の残党が片倉一帯に住み着いたという古伝なのだ。
 
実際、久保田家の近くには大内氏と厚東氏の戦跡として千人塚(清水崎古戦場)が残る。
天保期に成立した『防長風土注進案』(小郡宰判)にも「千人塚」から、「錆損(さびそん)したる剣戟(けんげき)」や「弓筈(ゆみはず)の折れ鏃」などが出土したと書いてある。
おそらくその場所で、厚東氏の一派は大内氏に殺されたのだろう。
そして殺害を免れた人たちが身を隠すようにして住み着いたのが、片倉一帯だったと思われる。
 
時代は大内氏から毛利氏へと移り、維新回天の幕末を迎えた。
 
このとき長州藩士のひとりとして、前出の久保田吉之助が登場するのだ。
 
久保田吉之助については『山口県史 史料編 幕末維新6』「集義隊姓名録」(970頁)に集義隊の大砲隊に属していたと記されている。
 
厚東義武の時代に大内氏に攻められて霜降城を退却した正平13(1358)年から500年余りの眠りから目覚め、厚東氏の更なるルーツである物部氏の魂が蘇ったのか。
 
実は、久保田吉之助は、暗殺された毛利謙八の家臣であったのだ。
 
厚南小学校の毛利謙八の墓の由来を記した湯田文祐が「傍証」としていたのが、集義隊伍長の久保田吉之助が、隊長の毛利謙八が暗殺されたことで、前途を悲観して駐屯所の浄念寺で割腹自殺を遂げたという逸話であった。
 
浄念寺に保管される久保田吉之助の過去帳『従安政貳卯歳 終元治貳丑歳 慶応閏五月改元 過去帳 第五』(安政3〔1856〕年~元治3年〔慶応元(1865)年〕)を確認したら、以下の言葉が記されていた【写真❺-1】。
「清涼軒釈俊乗居士 集義隊伍長 久保田吉之助 四月晦日割腹於本堂内陣終埋死骸于東隆寺東之墓所岡当拙寺葬之素此人片倉之産而当寺之旦那也以此縁故矣」

浄念寺に所蔵される久保田吉之助の自刃を記した『過去帳 第五』(平成23年6月)

久保田吉之助は浄念寺の「本堂」の本尊が据えられている「内陣」で、慶応元年4月29日に自刃していたのだ。

久保田吉之助が自刃した浄念寺「本堂」の「内陣」(令和元年11月)

毛利謙八が暗殺された(慶応元年2月2日)わずか2ケ月余り後だ。
 
面白いのは久保田吉之助の遺体を厚東氏の墓所である東隆寺に埋葬したことだろう。
理由は、久保田が厚東氏ゆかりの一族であったからと思われる。
 
実際、「片倉之産」ながら、浄念寺の「旦那」だったと過去帳に記されている。
 
明治維新の震源地であった長州藩には、さまざまな謎が残されたままなのである。


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