「ディープな維新史」シリーズⅥ 禁断の脱隊兵騒動❸ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭
大楽源太郎と河上彦斎
脱隊兵騒動のことを調べるために、山口県文書館に陣取って『脱隊暴動一件紀事材料』(毛利家文庫)を読んでいて面白い事実を知った。
所収されていた脱隊兵の嘆願書に、軍政が「西洋ニ流溺」し、「初メ攘夷」だった国の方針に「齟齬(そご)」をきたし、「終ニハ西洋と内外之弁別不相立様相成」となったという、脱隊兵側のナショナリズムに満ちた苦言が見えたからだ。
新政府が進める兵制改革は洋式軍隊への再編であった。実に、こうした軍隊の洋風化こそが自らのリストラの元凶という意識が脱隊兵側にあったのだ。
尊皇攘夷の理想を失い、欧化政策に舵を切り替えた新政府の態度を激しく糾弾していたのである。
さらに調べていくと「攘夷」を叫ぶ脱隊兵たちを扇動していたのが大楽源太郎と記されていた。
大楽源太郎は天保5(1834)年に萩の平安古(ひやっこ)中渡で、山県信七郎の長男として生まれた長州藩士だ。山県家は寄組・児玉家の家臣で、源太郎が大楽姓になったのも12歳で同じく児玉家臣の大楽家に養子入りしたからである(内田伸著『大楽源太郎』)。
その後、山県家と児玉若狭の領地であった吉敷郡台道村の旦(だん)浦に移住し、台道村で西山塾(せいざんじゅく)という尊皇攘夷派の私塾を開いた学者である。
敬神堂とも呼ばれた国粋的なこの私塾から、洋学者の大村益次郎を暗殺する神代直人や団伸二郎が出ていた。
実に脱隊兵騒動は、大楽の攘夷思想の具現として勃発していたのである。
さらに調べてゆくと、脱隊兵への武器の供給地が熊本藩の飛び地・鶴崎の有終館だったことが見えてきた。
漫画の「るろうに剣心」のモデルになった河上彦斎(かわかみげんさい)のいた場所である。
当時の話は、熊本藩士の中村六蔵が「明治初年自歴談」(『史談会速記録 合本四十』)で詳しく述べていた。
それによると、兵の解体を中止するよう諸隊が山口藩庁にいた藩公(毛利元徳)に会いに行ったが中に入れず、武力で突破しようとした際の「隊長」が大楽源太郎だったらしい。
このとき協力したのが富永有隣であったのも面白い。国木田独歩の『富岡先生』のモデルだ。
ところで武装蜂起した脱隊兵たちに必要だったのが武器であった。
このとき大楽が頼ったのが河上彦斎の主催する前掲の有終館だったのだ。
河上が木村鶴雄に命じて弾薬を山口の脱隊兵に送っていた。
だが、時すでに遅く、鎮圧されたあとだった。
「一敗地(いっぱいち)に塗(ぬ)れて賊徒は四方に散乱し」ていたので、「已(や)むを得(え)ず兵器弾薬は其儘(そのまま)有終館、即ち鶴崎の方に持ち帰つた」と中村六蔵は語る。
大楽源太郎が姫島経由で現在の大分市鶴崎の河上のもとに逃れ来たのは、この直後である。
鶴崎を取材してみると、そこは美しい牧歌的な地であり、大野川に架かる国道197号の鉄橋のたもとに「熊本藩 鶴崎作事所跡 有終館跡」と刻まれた石碑が建っていた。
大楽は、のちにこの地に逃れていた。
彼を匿った有終館人脈には、木村鶴雄の他に、毛利空桑や河上彦斎たちがいた。
この毛利空桑も長州藩主になる毛利家にルーツはあったことが、有終館跡近くの毛利空桑記念館を訪ねてみてわかった。
展示室の壁に貼られた「毛利家の系図」に、毛利元就の弟の元網の系譜が「到」、すなわち「空桑」につながっていたからである。
「元就と兄弟仲が悪くて、空桑のほうは消された家系なんですよ」
案内人の言葉を思い出しながら、あとで「毛利空桑先生家系」(『毛利空桑全集』)で確認してみた。
なるほど元網は弘元の3男であったが、側室の子だった。正室との間の子である元就が、側室である元網の一族を大永4(1524)年に誅殺したわけである。このため元綱の嗣子・貞勝は大内氏に寄食して天文21(1552)年に筑前に領地を手に入れたのだ。だが、子の貞輝が戦死し、その子の貞直が大分郡森村から常行村に移転して「土着百姓」になり、さらに孫の元延の代から医者になり、さらに元延から8代目が到、すなわち空桑であった。
なるほど毛利空桑記念館には長州藩主と同じ毛利家の家紋が示されていた。
ところで、そんな鶴崎に大楽が上陸して間もなく、新政府は河上彦斎の身辺調査をはじめていた。河上が、大楽の求めに応じた決起ができなくなったのは、そのためであった。
大楽は姫島の庄屋・古庄虎二を頼り、逃亡をつづけた。豊後地方の同志と行き来しながら、維新のやり直しを模索していたのだ(『毛利空桑全集』)。
脱隊兵騒動は大楽源太郎を通じて、もう一つの長州であった〝豊後の鶴崎〟に結ばれていたのだ。