見出し画像

「ディープな維新史」シリーズⅧ 維新小史⓫ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

関ケ原敗戦の回復思想


宇部維新招魂社の相殿祀られた福原家の5柱に共通していたのは、いずれも関ヶ原以前の福原家当主であったことだ。
 
このことは第24代の福原越後が元治元(1864)年の「禁門の変」で亡くなったことと深い関係があった。毛利一門にとって「禁門の変」が、関ヶ原以後の敗戦体制から脱却する戦いであったからだ。
 
福原家にとっての維新革命とは、徳川敗戦体制以前に戻る復古革命であったのだ。
 
面白いことに、宇部市立図書館所蔵の『維新招魂社縁起』には、「祖先七霊ハ福原家ノ私祭ニ関スル者ナレハ祭典量料下賜無シ」と記され、以下の7柱が祀られていたことがわかる。

『維新招魂社縁起』「祖先七霊ハ福原家ノ私祭ニ関スル者ナレハ祭典量料下賜無シ」〔その1〕(宇部市立図書館蔵)


「従五位下左衛門尉 大江時広公/掃部助 大江貞広公」

『維新招魂社縁起』「祖先七霊ハ福原家ノ私祭ニ関スル者ナレハ祭典量料下賜無シ」〔その2〕(宇部市立図書館蔵)


「従五位下行左近将監 大江広世公/下総守 大江広俊公/出羽守 大江貞俊公」

『維新招魂社縁起』「祖先七霊ハ福原家ノ私祭ニ関スル者ナレハ祭典量料下賜無シ」〔その3〕(宇部市立図書館蔵)


「従四位下行越後守 大江広俊公/隠岐守 大江広俊公」
 
明治10年10月に「内務省ノ令」によって維新招魂社は官祭の招魂社になり、祭祀神饌料や社殿修繕費など天皇から「下賜」されるようになった。したがって、この7柱は「福原家ノ私祭」のご祭神なので「下賜無シ」という内容なのだ。
 
ここに徳川敗戦体制以前に戻る復古革命のシンボルとしての維新招魂社の性格が、表面的に変わったことがわかる。明治維新は毛利家の名誉回復運動であったが、明治新政府が誕生して10年が過ぎ、しかも西南戦争という旧士族最後の戦いが幕を閉じたタイミングで、維新招魂社も近代日本を象徴する神社にリニューアルされたのだ。少なくとも、政府の見解ではそうであった。とはいえ、宇部においては、「福原家ノ私祭」の形で、その後も7柱が祀られたことには変わりはなかったわけではあるが…。
 
『維新招魂社縁起』の7柱を、『明治六年 招魂場記録』(山口県文書館蔵)で記された相殿祀られた5柱と比較すると、『維新招魂社縁起』における3番目の「従五位下行左近将監 大江広世公」と最後の「隠岐守 大江広俊公」の2柱が加わっていたことがわかる。
 
追加された前者〈大江広世〉は毛利元春の5男で、安芸国の高田郡福原村を本拠地にして鈴尾城を守り、福原姓を用いた最初であった。いわば、福原家の祖といってよい人物である。
 
追加された後者の〈大江広俊〉は、関ケ原の敗戦以後の福原氏であったが、常盤池の築堤開始や鵜ノ島開作の計画など、宇部村の開発に力を注いだ功労者である。その精神は宝暦13(1763)年に撫育方(ぶいくがた)を創設し、長州藩の捲き返しをはかった7代藩主の毛利重就(もうりしげたか)に通じる幕藩体制を超えようとした意識が伺えるのである。
 
「ディープな維新史」シリーズⅠ「厚南平野の怪❶」で見たように、毛利重就の撫育思想が幕末の討幕運動を用意していたことを忘れてはなるまい。郷土開発の裏には、討幕意識が隠されていたからだ。
 
ともあれ、以上の2柱は、以前の5柱に加えられ、維新招魂社に合祀されていたのである。
 
実際、大正11年に刊行された『稿本宇部五十年志』にも、「時広、貞広、広世、広俊、貞俊、広俊(越後守)、広俊(隠岐守)七公の霊も、福原家より合祀さる」と見える。
 
宇部市制施行のころ(大正10年11月)にも、未だ「福原家ノ私祭」の形で7柱に対して祭祀が行われていたのだろう。宇部護国神社は福原越後をはじめ、「禁門の変」で散華した維新革命の英霊たち祀るのみならず、福原家の祖先たちを祀る招魂社として、宇部ではその後も続いていたのである。明治維新は、あくまで毛利一門の名誉回復の戦いであった、と。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?