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「ディープな維新史」シリーズⅡ 靖国神社のルーツ❷ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭


移転前の椿八幡大宮家墓所「大夫塚」

「大夫塚」墓地の移転

萩の椿八幡宮近くの青山大宮司家墓地「大夫塚(たゆうつか)」の移転話が出たことで、子孫縁者が萩に集まり、「大夫塚」の調査と移転場所について話し合うことになった。話し合いは何度か重ねられた。

「大夫塚」移転のために萩椿八幡宮に集合した青山大宮司家の子孫縁者たち(平成19年7月)

シダやコケの生えている林の中にあった「大夫塚」には、2基の八角形墓が鎮座し、それぞれ神名と神去(死去)の年月日が刻まれていた。
 
例えばひとつ目の八角形墓には第3代の青山宗久、第6代の青山直賢、第8代の青山長宗の3柱が刻まれ、もう一基には第4代の青山宗直と第7代の青山忠雄の2柱が刻まれていた。考えてみると、県内にも類例がない不思議な墓石である。

移転前の「大夫塚」にあった八角形墓

ほかに招魂碑形式の神道墓も一基あった。
それには「青山春木之墓 青山清嫡子 明治六癸酉年十二月二日 於東京死 享年廿三歳」と刻まれていた。
 
青山清の跡継ぎであった息子で第10代の青山春木の墓だ。
 
以上の合計6柱の大宮司や、別に宮司の妻や子供と思しき自然石の墓石がある場所が、「大夫塚」だったのである。
 
そしてずっと墓守をしてくださっていたのが、すぐ下に家がある塩見久浩さん(故人)だった。そこで墓石は塩見さん宅の敷地内に移転することになったのだ。
 
移転作業にゴーサインを出した私は、山口県文書館の毛利家文庫を調査し、青山大宮司家関係の資料を集めることにした。
文献調査や編集作業を広島時代の土師・青山家の子孫である青山隆生さんや、お兄さんの青山幹生さんたちが協力してくださったおかげで、前述のように平成22年7月に福岡の弦書房から『靖国の源流』と題して上梓できたのである。

墓所「大夫塚」移転から調査を行い、青山大宮司家子孫縁者により弦書房から出版された『靖国の源流』

この本は、いわば墓所整理でまとめた青山一族の私的記録だった。
しかしながら、同族の一人である青山隆生さんが日光東照宮の神職という関係から神社関係者に急速に知れ渡った。
青山さんの恩師である元皇學館大學学長の田中卓(たなかたかし)先生を通じて、平成22年11月1日付けの『神社新報』に所功(ところいさお)先生の書評が出たのである。
所先生は、「読み易いが、内容的には学術書」と称賛され、「とくに注目すべきは〔略〕、初めて明らかにされた青山清の経歴と功績である」と、専門家の立場から高く評価してくださった。

そして、この本を出して終わりではなかったのだ。

さらに新たな資料が見つかったので、4年後の平成26年12月に改めて弦書房から『靖国誕生』と題する本を出版したのだ。

すると今度はその本がきっかけで、前に述べた雑誌『宗教問題』を主宰する小川寛大さんと知り合うことになったわけである。

ここで徳川康久氏の平成25年1月における靖国神社宮司就任を改めて振り返れば、最初の『靖国の源流』と次の『靖国誕生』の間の出来事だったことがわかるだろう。
 
その延長線上に、「向こう(明治政府軍)が錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になった」と、長州藩による靖国神社成立史を否定する問題発言が飛び出したのだ。
 
平成28年7月1日号の『週刊ポスト』での徳川宮司発言につづいて、平成28年11月号の『文藝春秋』で共同通信社の柿﨑明二氏が「靖国神社が国賊を祀る日」を、11月13日号の『サンデー毎日』では編集委員の伊藤智永氏が「靖国神社改造計画㊤」を、さらには年が明けた平成29(2017)年1月16日号の『AERA』では「宗教と日本人」の特集で、「靖国合祀に新たな課題」と題して一連の問題がセンセーショナルに取り上げられた。
 
その全てが、青山清の故郷である山口県の片田舎から始まっていたことになる。





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