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「ディープな維新史」シリーズⅧ 維新小史❺ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

明治44年筆記『郷土誌』


長州宇部のファシズム革命学校「維新館」について、もう一つ興味深い資料を紹介しておこう。
 
山口県文書館に所蔵される明治44年筆記の『郷土誌』と題する小冊子だ。
その中の「福原氏邸」の箇所に以下の「維新館」の説明が見える。
 
「上宇部村字中尾村にあり 維新前には学館あり維新館と云ふ、剣、馬鎗術の練習場たり 額は錦小路の筆なり 採地奉還の際廃止せり」

明治44年筆記『郷土誌』(山口県文書館蔵)


面白いのは「額は錦小路の筆なり」という記述である。
「維新館」と記した扁額が七卿落ちした7人の公家の中で最年少の錦小路頼徳(にしきのこうじよりのり)の手で書かれていたのである。
 
実は、攘夷・討幕派の錦小路は、維新館の創設と時を同じくする元治元(1856)年4月25日に、下関の白石正一郎邸で病死していた。したがって編額を書いたのはその前となる。
 
ちなみに病死した錦小路頼徳を元治元年5月に青山上総介(青山清)が山口赤妻の地で招魂祭をして、赤妻神社(当初は「安加都麻神社」)している。招魂祭をした理由は、戦死者と見なしたからであろう。赤妻神社の創建については、拙著『靖国誕生』p105~108に詳述したので、詳しいことを知りたい人は見ていただきたい。

山口市赤妻に鎮座する錦小路頼の墓(左)と同氏を御祭神とする赤妻神社(右)。


話を戻そう。
福原越後の招きで錦小路頼徳が宇部に来たのは、文久3(1863)年11月である。
東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)と連れ立って宇部入りし、緑ヶ浜で大砲銃陣や琴崎八幡宮で剣術を見学していたのだ(『琴崎八幡宮物語』「第一章「錦小路頼徳と東久世通禧」)。

維新ファシスト革命軍を訓練した宇部の「緑ケ浜」(現、港町1丁目)


錦小路が「維新館」の額を墨書したなら、このとき以外にはなかろう。
「維新」という体制変革の意識を込めた扁額を、公卿が自ら書いたのだから尋常ではない。
 
逆に言えば、早くも文久3年秋には「維新」の文字を冠した福原家の学校創設プランがあったことになろう。むろん攘夷と討幕の両方の目的を持つ学校であった。
 
前掲の『郷土誌』には「維新館時代」と題して具体的なことがいくつか述べられていた。
まずは、「剣術ハ萩ノ馬木勝平氏ノ門人多ク柳生流」だが、藤本保が教官になって流派が変わったとしている。「槍術ハ萩ノ小幡先生ノ流」とのことだが、「西洋銃陣」が導入されて剣術と槍術が衰退したらしい。「元僴公」こと福原越後が藤本保と定近市太を萩に派遣し、「西洋銃陣」を学ばして維新館で教授させていたとも見える。

福原越後は身分を超えた農兵を採用して「西洋銃陣」を教え、和銃で長沼流の戦法で戦わせるつもりだったのである。軍事のイノベーションだ。
 
注目すべきは「西洋銃陣」の言葉である。
吉田松陰の「西洋歩兵論」の実践で、それを実現する、もうひとつのキーワードが「農兵ノ制」だ。
 
文久3年6月に高杉晋作が結成した奇兵隊と同じ、身分を超えた西洋銃陣の訓練が、宇部の維新館でも行われていた様子がわかる。
 
ただし、西洋式のライフル銃は十分ではなかった。そこで旧来の「和銃」を使ったのである。
 
武器は火縄銃のレベルで、兵制だけ「西洋銃陣」に仕立てたのだ。
したがって、その後の皇居に大砲をぶっ放した「禁門の変」では、しくじることになった。
 
皇居から孝明天皇を山口城まで連れてくることができず、その責任を取って福原越後が自刃した話はすでに何度も紹介した。彼は長州藩の「当職」、すなわち藩主に代わってすべての実務を担う立場であった。そんな立場で皇居に進撃したのだが、革命家は殺される悲運が常である。
 
こうして罪を負わされ自刃した福原越後に、後継ぎとして福原芳山が入り、慶応元(1865)年の冬に士分と農民の混成部隊「知方隊」を結成したのである。それも今風に言えば、ファシズム革命主義の「西洋銃陣」の延長線上の隊であったといえよう。
 
現在、宇部護国神社(旧・維新招魂社)の境内には「献装條銃拾六挺 知方隊中」と刻まれた石碑が建っている。戊辰戦争の終盤である明治元(1868)年8月に、知報隊がミニエー銃(装條銃)16艇を奉納した記念碑であった。

宇部護国神社境内の「献装條銃拾六挺 知方隊中」の石碑(平成26年9月)



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