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「ディープな維新史」シリーズⅡ 靖国神社のルーツ❹ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

青山清と母千世を描いた軸の前で。筆者〔左前〕、青山隆生さん〔左後〕、山口佳代子さん〔右〕(平成29年4月・東京青山本家にて)

東京青山本家に残る遺品

青山清の東京での家系である東京青山本家について少し述べておこう。
明治維新後の明治12(1879)年6月に、東京招魂社が靖国神社となったことで、それまで祭事掛だった青山清はそのまま靖国神社の初代宮司になったのだ。

実は、この時代の神官姿の青山清の肖像写真が東京の宮内庁(三の丸尚蔵館)に所蔵されている。

明治12年に明治天皇が御下命により収集されたもので、明治維新に功績のあった4500名余りの著名人のうちの1枚である。明治天皇の所有物なので掲載には宮内庁の許可が必要となり、ここでは紹介できない。

ただし、『靖国神社とは何だったのか』(令和2〔2020〕年・宗教問題刊)には宮内庁に許可を得て口絵写真として使っているので、関心のある方は、そちらをご参照いただきたい。

さて、宮内庁の青山清の肖像写真の下には「権少教正青山清 東京府士族 六十五歳」と筆書きされている。むろん「東京府士族」というのは正確ではなく、正しくは長州藩士であった。

そんな青山清は、世継ぎの息子・春木を明治6(1873)年12月に失い、続いて妻の増子も後を追うように明治7(1874)年10月に他界していた。

したがって靖国神社の初代宮司になったときは孤独老人であったのだ。

こうした不遇な境遇からか、おそらく最初は身の回りの世話をさせるために「よう」を囲い、19歳の「よう」に「むく」を生ませたことで、2年後に21歳になった「よう」を後妻に迎えた。

そして73歳になる明治20(1887)年に七十三郎(なとみろう)を、76歳になる明治23(1890)年に七十六郎(なとむろう)を授かり、翌明治24(1891)年2月6日に奉職中に大往生を遂げたのである。

同年2月8日付の『読売新聞』には、清の母方の子孫である長沼鯁介(ながぬまこうすけ)、そして清と前妻・増子(山口県士族勝木新介の次女)の娘・ツルの長男・岩崎傳槌(いわさきでんつち)ら、山口県側の2人の「親族」が中心になって葬儀を行う訃報記事が確認できる【写真❹-1】。清の墓は青山霊園に建てられた。

青山清神葬記事(明治24年2月8日付『読売新聞』)

現在、東京の後妻「よう」の家を青山本家と称するのは、こうした延長線上に清の遺品が継承されているからだ。いずれも没後、そのまま家に残されたものであった。

その後、東京青山本家は長男の七十三郎に引き継がれた。しかし七十三郎が大正8(1919)年に32歳で死去したことで、次男の七十六郎が遺品を継ぐ。そして七十六郎の長男の青山正樹さんも他界し、現在は娘である前出の山口佳代子さんが遺品を管理していたのである。

私は山口さん宅で、青山清の御神体「従七位青山清霊璽」をはじめ、「青山家歴代霊神号(仮題)」、「駿河守従五位青山長宗命霊璽」、「日下部醜經大人命より拾代之祖等神霊代」、「青山家女祖等之神霊代」、「青山家女祖等の戒名(仮題)」、そして明治14(1881)年に85歳を迎えた母千世の祝いで讃を書いた軸などを見せて戴いた。

東京青山本家の資料を確認する青山隆生さん〔左〕と山口佳代子さん〔右〕(平成29年4月)

山口さんが、「山口県側の御子孫とお会いできて曾祖父も大変喜んでいると思います」と口にされたのが印象的だった。




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