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「ディープな維新史」シリーズⅧ 維新小史《錦旗密造と長州》 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

《錦旗密造と長州》


戊辰戦争の直前であった慶応3(1867)年12月9日に王政復古の大号令が渙発され、即席の新政府が樹立された。
 
これと並行して長州藩では「錦の御旗」の密造を着手した。
私の曾祖母の祖父・青山上総介はこのときの、錦旗密造に関係したひとりである。彼こそが明治維新後に上京し、靖国神社の初代宮司になった青山清だった。

青山上総介〔靖国神社初代宮司・青山清〕(靖国神社蔵)

錦旗密造の場所は、現在の山口県庁の横を流れる一の坂川の畔だった。そこには今、「錦旗製作所址」の石碑が建っている。

そこにあった藩の養蚕所の建物を密閉して密かに錦旗を製造したのだ。 

密造は、京都洛北で蟄居中の下級公家・岩倉具視が国学者の玉松操や薩摩藩士の大久保利通(一蔵)を巻き込み、討幕の密勅の工作と並行して進められた。 

岩倉の側近・山本復一の語るところでは、岩倉から依頼を受けた大久保が京都の妾おゆう(後に大久保の第2夫人)に買わせた生地を品川弥二郎に持たせ、品川が長州に入って萩の有職師・岡吉春(後に陸軍少将になる岡市之助の父)に作らせたという(『大久保利通』「京都時代」)。 

山口県立博物館には、このときの「錦の御旗」の余り布と、由来書が入った額縁「錦旗余片」が保管されている。 その由来書には、大和錦と紅白緞子(こうはくどんす)数匹を品川が広沢真臣、世良修蔵らと長州藩に持ち帰り、藩主(毛利敬親)に討幕の密勅が朝廷から下ったことを伝えると同時に、錦旗(きんき)製作の内命を報告したと記されている。

玉松操のデザインをもとに、毛利家祖先の大江匡房が記した『皇籏考』を参考にして2旒の錦旗を作ったのだ。そして諸隊会議所(石原小路)に残されていた「錦旗余片」が柴垣家に伝わったとする。

 長州藩の絵師・大庭学僊が描いた「錦籏図」も、やはり山口県立博物館に保管されている。

大庭学僊が描いた「錦籏図」(山口県立博物館蔵)


赤地の錦に「日」と「月」が浮き上がる二旒の旗で、「宮さん宮さん、お馬の前にヒラヒラするのは何じゃいな」の歌詞で知られる官軍旗だ。
 
この「都風流トコトンヤレぶし」も、品川が作曲して大村益次郎作が作詞したと伝えられるように、戊辰戦争で東征大総督・有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の指揮下、薩長土肥の兵隊が「錦の御旗」を掲げて江戸城に向けて進軍したときに歌われた最初の軍歌であった。
 
明治38(1905)年3月7日の『防長新聞』には、当時を知る柴垣弥壮(諸隊会議所にいた柴垣弥兵衛の息子)へのインタビュー記事「毛利藩にて作られたる錦の御旗」が載っている。
 

明治38年3月7日付『防長新聞』「毛利藩にて作られたる錦の御旗」


柴垣弥壮の語るところでは、そもそものきっかけは四境戦争後に薩摩の黒田清隆が長州入りし、道場門前の山城屋へ泊ったときに薩長が幕府を討つ密約を交わしたことにあったそうだ。そこで官軍旗である「錦の御旗」が必要となったが、実物が存在せず、長州で造ろうということになったわけだ。材料として京都から300両の錦の生地を取り寄せたというのが、前述の「大和錦」であった。
 
この密議を知っていたのは、広沢真臣、木戸孝允、井上馨、柏村数馬、品川弥二郎、世良修蔵、太田市之進たち数人だったらしい。父の柴垣弥兵衛が、元の養蚕所を諸隊会議所として預かっていたことから、ある日、世良がやって来て「チト頼みたい事がある」と願い出たのが「錦の御旗」密造のはじまりだった。
 
結局、藩の養蚕所の四方を竹垣で囲んで、萩の細工人の岡芳春(岡吉春)が秘密裏に製造し、慶応3年の終わりには完成したのである。
 
出来上がった「錦の御旗」は、長さが1丈5尺(約4.5メートル)。3枚張り合わせた幅は4尺5寸(約1.35メートル)くらいだったらしい。2流の「錦の御旗」は別々の箱に入れられ、床の間に据えられると、青山上総介が来て詞をあげて本物に仕立てたと柴垣は語る。
 
「是(こ)れが青山上総(あおやまかずさ)といふ人で後に靖国神社の宮司をして居た人 それに祓(はら)ひをさした。誰も中に何が這入つて居るか知らなかつた」
 
さて、そこで原田伊織は『知ってはいけない明治維新の真実』で、「錦旗を偽造するなどという行為は想像を絶する悪行であり、神仏に背く行為」であり、「気の荒い」長州人が、ニセモノの錦旗を掲げて皇居に大砲をぶっ放したテロリストと語るのである。
 
しかし既述のように、そもそも宮中に錦旗の現物はなく、討幕を行うための旗印が必要だったがゆえの密造である。そこで古式に則り、手順を踏んで錦旗を丁寧に製造し、最後に萩椿八幡宮大宮司で国学者の青山の祝詞で本物に仕上げたという流れである。
 
密造には、長州藩の最高の学者や技術者、指導者たちが関わっており、原田氏がいうような「一晩でさっさと作られた」(前同)というような安物でもなかった。
 
しかも原田氏が問題視する錦旗の密造は、別に長州藩だけに限ったものではなかったことも取材によりわかってきた。実は、大分県安心院町で国の重要文化財になっている重松家(造り酒屋)を訪ねたとき、御許山(おもとやま)事件当時の「錦旗」が保管されていたことで、それを知ったのである。

大分県安心院町の重松家(造り酒屋・国の重要文化財)に所蔵される「錦旗」

「錦旗」は日本の各地で、密造されていたのではあるまいか。それはグローバリズムに対抗できない形骸化した徳川体制を刷新するためのシンボルだったのだ。
幕末の「錦旗」は、維新革命の精神に昇華していたのである。
 
「ディープな維新史」シリーⅧでは、討幕維新期の「錦旗」密造に至るまでの長州での討幕維新の精神史を追ってみたい。





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