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ミッドナイトスワン 持つ者と持たざる者が出会う時

「どうして私ばかりがこんな思いをしなければいけないの」

きっと誰もが感じたことがある感情。身体と性別に心を痛めて生きてきた凪沙と、愛情を感じることが難しい養育環境で育った一果は、どれだけこの言葉を心の中で吐いてきたことだろう。

人は生まれた時から色々なものを持たされている。性別、生まれた地域、親、養育環境、裕福や貧困。その持たされたものや環境の中で生きていかなければならない。この作品では、持つ者と持たざる者が「母」という存在とバレエを通じて対比されていた。

・痛いホルモン剤を定期的に注射しながら女性として生き、母という存在に憧れはじめる凪沙/娘を大切にしたい気持ちはあるが結果的にはネグレクトとなる一果の母親/「この子からバレエを取ったら何も残らない」と娘の前で嘆き、娘自身を見ようとしていないりんの母親

・バレエをやりたくても月謝を払うお金も練習着もない一果/不自由ない環境で育ちながらも自分という存在を親から見てもらえないりん。

全てを持っているように見えても、何かが足りなくて実は渇望している人は多い。何かを持っている者は、他の何かを持っていない。だから「とりあえず泣けば大丈夫」と強がりを言ったり、自傷行為で気持ちを落ち着けなくてはならない時は、誰かの寄り添いが必要になる。

凪沙は一果に寄り添う。一果はりんに寄り添う。それは逆も然り。誰もが持つ者であり、持たざる者であるから、寄り添いあう。

一果を演じた服部樹咲さん。人を信用することができない表情から、少しずつ凪沙やりんと交流を重ねて変わっていく姿。アパートの廊下でも踊らずにいられない姿、そして場面を重ねるごとに凄みを増していくバレエ。こんなに美しいものをみせてもらっていいのかと思う程の素晴らしさだった。

そして一果に声をかけ、想像ができないほどの関係性を結ぶりん。りん役の上野鈴華さんも本当に素晴らしかった。何でも持っているように見えるりん、何も持っていないように見える一果。上辺では見えない孤独と嫉妬と愛情と友情が2人の間に漂っていて、違う場所で同時に踊る場面は忘れられない映画的ワンシーンだと思う。

中学生の一果にとって環境は変えることができないもので、どうにもならない思いは腕を噛んでやり過ごすしかなかった。けれど、背負ってきた環境から抜け出して自分本来の性別として生きる凪沙と出会った時「私として生きる」ということを理屈ではなく体感したのだと思う。だから凪沙の外観が変わった時に「そんなこと頼んでいない」と大きな怒りを見せた。

「私として生きる」親や養育者が子供に伝えるべきことがあるとしたら、これ以上大切なことはないんじゃないか。だから、やっぱり凪沙は一果の母なのだと思う。

登場人物の感情が前触れなく突然変化したり、どうしてこの状況になったのか説明不足に感じる場面も一部あった。誰かの成功や幸せは誰かの犠牲がなければ成り立たないのか?と疑問に感じてしまうほどの展開が辛かった。

母の愛という言葉を聞くと「父・親戚・先生・他人からでも、健やかにあなたらしく生きてほしいという気持ちは変わらないよ!」と反論したくなってしまうのですが…『その思いを受け取り、羽ばたくことが、あなたの人生で出来るだけ沢山あります様に』という願いが「母になりたい」という凪沙の一果への思いなのかもしれないと思った。

エンドロール終了後のワンカットは見逃したらいけませんよ。

(以下ネタバレを一部含む感想なのでご注意を)



・屋上で踊る一果をりんが眺めている時、バレエの才能を持つ者を目の当たりにしたりんの心情表現がとにかく凄かったですね。「一果はバレエ上手くなった」「なってないよ」「可愛くなった」「なってないよ」のボソボソとした喋りのやりとりがたまらなかった。あのキスは、一果への憧れや純粋な愛情も含んでいるけれど、おそらくキスした経験はない一果を支配したい、どこかでせめて上回りたいという残酷な感情も含んでいるように見えた。

・先生が持っていたエアメール。私は「りんから送られてきた物でありますように!」と密かに願った。軽い怪我で済んでいて、結果的に親から留学させられたりんからの手紙であってほしいと。観賞後の今でも願ってる。

・一果が怒りで投げた椅子は2回。母に殴られても言葉で反論することは出来ず耐えてきた一果は、怒りを言葉で表出することは出来ず、物を投げることでしか表現できなかったのだと思う。そして一果達が警察に話を聞かれた出来事と対になるように、凪沙と瑞貴が警察から話を聞かれる場面が配置される。どちらも性を搾取される場面であり、特に後半は身分証明書により「瑞貴という人間として生きている」ことが否定される。これも凪沙にとって「母として生きる=身体も女性になる」という考えに拍車がかかったように感じた。

・外国での手術場面が妙に丁寧に描かれていて不自然さを感じていた。外国に来ている場面、手術室に入る場面のみを映し出せば手術をしたということはわかるのになぁと。特に患部をギリギリまでカメラを近づけて映し出していることは「これほどに大変な思いをして受けている」ということと最期の展開に繋げる必要性があったのかもしれない。

・その最期の展開があまりにも唐突すぎて私は最初理解ができなかった。どうしてあの状態になっているの?光を失っている様子は何故?がん等の病気になってしまったのかとか色々考えてしまったけれど、術後のケアが十分出来ず感染症などの影響であの状態になったと自分の中では結論付けました。小説ではもっと丁寧に描いているのだろうけれど、私の中では戸惑いが大きかった。

・凪沙が世話をしている金魚の尾びれがヒラヒラと水の中を舞う様子と、部屋の中に干してあるチュチュが華やかでもあり寂しくもあった。だから最期の水槽がより切なかった。

・トレンチコートを着て颯爽と歩く一果は、凪沙から受けとったことを受け継いでいるよね。最後のワンカットのように、凪沙がそばにいることを感じながら。

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