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【放課後】三年(みとせ)だけ 見惚れし姫は 箱の中

 「でも、ちょっと不思議じゃないですか?ああ、これ、一昨日の授業の続きです。大丈夫。土曜日の4時限目ですから、集中力が途切れても分かる話をします。」――業平先生はそう仰せであるが、土曜4限だからというよりも、物理→美術→英語と続いてからの古文という流れで、なかなか頭の切り替えが上手くいかない。否、私の頭など、所詮どんなコマの組み方だろうと切り替わらないではないか。無理にでも切り替えて乗り切る。それが高校生活というものだ。否、無理に切り替えようとするから、前の授業内容を忘れてしまうのだろうか。前の授業って・・・ああ、英語だったな。Even today, my sense of time has already become strange.(今日1日だけで、もう時間の感覚がおかしくなっている。)
 「何が不思議って、『浦島太郎』ですよ。どうして玉手箱を開けるとお爺さんになってしまうのか?って、子供の頃、疑問を抱きませんでした?いや、そうです、その通りですよ。箱の中には『時間』が入っていたからです。まあ竜宮城の主である海神様のことですから、漆塗りに金箔で波模様をあしらった木製の箱に『時間』を格納する技術は持っていることとしましょう。でも、その『時間』って何の時間ですか?――そうです、その通りです。太郎が竜宮城で過ごした短い時間を【A】とし、その間に太郎の故郷である漁村で流れていた長い時間を【B】とした場合の両者の差、則ち、B-A=【C】に相当する時間を白い煙にして箱に詰めています。でも、ますます不思議に感じません?そもそも、時間【A】と時間【B】との間に差があるのは何故ですか?」――流石だ。千春さんは恰も始めから答えを分かっている様子でこの授業を聴いている。今日も麗しいなあ。乙姫様みたいだなあ。あっ、千春さんがとうとう答えた!
 「竜宮城で使っている時計と、漁村で使っている時計が、違う動きをしているというか、時間のリズムというか仕組みが違うのではないかと思います。」――千春さん、いくら可愛いからって、その答えは無いでしょ。竜宮城の中で鯛や比目魚が舞い踊る背景に時計を描いている絵本なんて見たことないよ。あっ、そうか!これは大喜利モードに入ったんだな。ヨシ、私も面白い回答をしなくちゃ。え~と、まずその前に司会者の番だな。千春さんに座布団くれるのかな?
 「ご名答、正解です。」――まっ、マジ?――「竜宮と漁村とでは、時間の単位そのものが異なる世界なんですよね。まあ、文献として最も古い『浦島太郎』は万葉集ですから、当時、この教室にあるような時計を使用していたわけではありませんが、日が昇り日が沈むという繰り返しを「1日」と数え、月が満ち月が欠けるという繰り返しを「1月」と数えていた時間的感覚は、現在の私達と変わらないと思います。正確に云うと、現在のカレンダーはグレゴリオ暦ですから、月の満ち欠けと1ヶ月の期間は合致しないんですけどね。それでも、秒針が1周すれば1分、長針が1周すれば1時間、短針が1周すれば半日という、時の流れていくスピード感は、太郎も私達と同じだった筈です。
 しかし、竜宮では1時間が60分では無く、1日も24時間では無かった可能性があります。時計の文字盤にどのような目盛りが刻まれていたのかまでは解明できませんが、そういうスピード感で生活していないのです。時間の感覚が私達の世界と同じでは無いのです。――これは中国文学のテーマである『神仙思想』に遡ります。山東半島を中心に、秦から漢にかけて生まれた思想です。大昔ですね。東の海の彼方に『蓬莱』『方丈』『瀛州』という、金銀財宝を敷き詰めた3つの島があり、僊人が住んでいると言われています。僊人は空を飛ぶことが出来て、死にません。方士と呼ばれる人が音頭を取って島々を一生懸命拝むと、その僊人がやって来て福を授けてくれます。こうした考え方が元となって、山岳信仰の話が具体化していきます。山で修行を積んで薬を飲むと、自分自身が仙人となって、不老不死になれるという信仰です。当時の平均寿命って50年くらいだったんでしょうかねえ。するとですよ、50年しか生きられない人間にとっての1年と、ずっと生きていられる仙人にとっての1年とは、まるで感じ方の違う『1年』ですよね。つまり、不老不死という発想と共に、時間の相対性という概念も出現したわけです。浦島太郎に描かれているのもコレです。人間と仙人との時の長さのズレが、現世と異界との時間のズレ、竜宮と漁村との時間のズレってことで全部繋がっているんですね。
 万葉集に端を発する浦島太郎には、ほぼ同時期に作られた『風土記』――則ち日本各地に伝わる物語――との共通点があります。それは2つのテーマです。1つ目は、現世から異界へと出かけて異界の女と結婚するという『異界訪問』です。そして2つ目は、異界は現世と違って時がゆっくりと流れるという『不老不死』です。この『異界』というのが後に仏教的な色彩を帯びて、今の日本人にとっての『あの世』つまり『浄土』となるわけですが、こうした世界観を伝えるためなのか何なのか、あの世へ主人公が出かけるっていう基本的構造を有する昔話はとても多いんです。
 但し、昔話っていうのは、どちらかというと子供達に向けて『今となっては昔のことなんだけどさあ、かつてこんな事があったんだよ』と語るものです。過去は現在と切り離されて語られるのです。一方で大人達に向けた『神話』というのがあります。神話の考え方は『イニシヘ』です。昔と今とは関わりがある。今というのは『以前の延長線上』にあるから、昔というのは今と切り離されず、行けば行き着ける。それが『イニシヘ』です。春→夏→秋→冬、子供→老人→死→生→子供、時代とは円環を描くように繰り返されるもの。過去との間に連続性を見出す思想です。過去との間に断絶性のある『昔話』と違って、『過去にこんな事があったから、現在こうなっているし、未来もこうなるんだよ』と語るものが『神話』。つまり、子供向けの『昔話』と大人向けの『神話』とは厳密に言えば異なる物語なのです。
 浦島太郎は当初『神話』の要素が濃い物語でした。だから前半の『異界訪問』と後半の『不老不死』がセットで語られても問題無かったのです。ところが、本作品を『昔話』として、教科書や絵本にしてしまった。すると、テーマの分裂が生じ、子供向けでは無くなります。だって、初めて浦島太郎という作品に触れた時、子供だった君達も腑に落ちなかったでしょ。箱の中に時間が閉じ込められているのも不思議だったけれど、そもそも亀を助けた『いい人』が『不幸』になって終わる。なんで?これが『どうして玉手箱を開けるとお爺さんになってしまうのか?』って、子供の頃、疑問を抱いたもう1つの理由ですよね。高校生になった今でも腑に落ちないんじゃない?分かりにくいよね。要するに、昔話では、善人が悪い結末を迎えてはならないんです。従って、どうしても教科書や絵本にしたいのならば、前半と後半を分ける必要があった。
 ハイ、僕の『浦島太郎』の解説はこれにて完結です。どう?少しだけスッキリした?」――業平先生の結論が出たところでチャイムが鳴る。いつも時間ピッタリな解説だ。
 
 久々に千春さんと歩いて帰った。むろん恋人同士のように約束をしていたわけではない。下駄箱で偶然一緒になり、公園でかき氷を食べようとなったのである。梢秋も半ば過ぎだというのに昼下がりは暑い。土曜の午後はお互いに部活も無かった。ん?どちらからともなく誘い誘われ、公園でかき氷って、是、恋人同士のすることではないの?当時の私って、小さじ一杯程度はモテていたということか?足りなかったのは頭と勇気ということか。まあいいや、そんな事をオトナになってからいくら分析したところで、あの公園に戻れるわけではない。それは竜宮城の時計でさえ無理なことだ。
 いつも通り会話は弾んだ。「不老不死って言うけどさあ、老いない、死なない、って、どんな感じなんだろ?っていうかさあ、老いないし、死なないってなると、ず~っとハタチくらいのまんま生き続けるってこと?それって、生まれてから20年で成長が止まるって感じなのかなあ。ずっと赤ちゃんのまんまなわけじゃあ無さそうだもんねえ。だって、乙姫様は結婚適齢期の娘なんでしょ。そうなると、生まれてからの20年間に限っては、竜宮でも時間の経過していくスピードが漁村と同じなのかなあ。」「それっ!私も今、アナタとおんなじこと考えてたの。」「いや~、クラス1の秀才と同じこと考えていたなんて光栄です。」「だから、止めなさいって!その言い方!本気で怒るわよ。」――私の学年は7クラス315名。クラス1位の成績だったのは7クラスとも女子だった。そして、ウチのクラスの1位だったのが千春さん。容姿端麗というわけでなく、他の男子生徒が彼女に想いを寄せているなんて話も全く耳にしなかったが、私はこの女性の愛嬌と度胸にぞっこん惚れていた。「そんなに怒るなよ。冗談だってば。でも秀才ってのは間違いないだろ?」と謝りながら、頬を膨らませた乙姫様の可憐な表情を目にした途端、私の心は鯛や比目魚のように舞い踊っていた。「アナタの言う通り、きっと時間は流れ続けているのよ。ゆっくりだろうとね。だから、ハタチになったら時間が止まるってことも無いのよ。時間自体が存在しないってことは無いのよ。だって、仙人って、頭がツルツルで白い髭を伸ばしてて、明らかにお爺さんじゃない。だから、ものすご~いスローペースでもね、ハタチの後も、ハタチになるまでと同じように時間は流れ続けるのよ。そうなると、『不老不死』っていうのは、象徴というか強調というか、イメージしやすい言い方をしているだけで、実際には、たとえ異界であろうと、いつかは老いるし、いつかは死ぬのよ。死ぬまでの時間が現世の単位では途轍も無く長いってだけでね。」「それそれっ!実は『不老不死』っていうのは『理想』ではあるんだけど、たとえ竜宮城の中であっても『実現できないこと』なんだ、あの乙姫様だって、いつかはお婆さんになるんだ、ってことを伝える意図があるとすれば、浦島太郎って物語はさらに奥深いなあって思ったんだ。」「意図が有っても無くても、読者であるアナタが作者なんだって、先生言ってたじゃない。」「それって、『アナタは奥深い人間です』って褒めてくれているの?」「ううん、そこまでは言っていない。」「あちゃ~。」――公園を散歩する我々の結論は「不老不死は不可能」というものだった。
 不老不死が人生を幸せにするとは限らない。否、もっと激しく断言しよう。「人はなぜ生きているのか」という問いこそが人生の醍醐味。「老いない、死なない」人生なんて、この問いそのものを喪失させてしまうのだから、寧ろ人生を何ら値打ちの無いものにしてしまう願望に過ぎぬ。もしかしたら、浦島太郎の作者はここまで示唆しようとしていたのかもしれぬ。高校生の脳内は常に哲学者。斯様なる勝手な仮説や自問自答にいくらでも時間を費やせるのが「若さ」というものなのである。
 
 「不老不死は不可能」――是、立ち返ると「たとえ竜宮でも時計の針は進んでいる」ということ。竜宮のほうに時間という次元そのものが存在しないとなれば、【A】=0となる。でも、物語には太郎が竜宮城で過ごした時間が書かれている。「数日間」から「数年」まで諸説あるようだが――「3日」と書いているものも「1週間」と書いているものも「三度の春が過ぎ」と書いているものもあるが――何らかの時間が経過していたという事実自体は確認できる。異界の時間を現世の時間に換算するためには、異界にも時間が存在することが前提条件なのである。【A】=0では、換算しようがない。白い煙にして玉手箱に詰め込む時間を計算できないのだ。【A】=0でもストーリーが崩壊するようなことは無いが、漁村との比較対象となる数値が無いと本作品の読解は極度に難しくなるし、何か別の問題提起を孕んでいるといった解釈すら禁じ得なくなってくる。やはり【A】>0のほうが説明しやすい。
 ・・・かき氷を食べた二人は、その足で本屋さんに行ってみた。むろん、絵本の浦島太郎が竜宮城で過ごした時間を確認するためである。その本屋さんの絵本では「3年」だった。けど、その“竜宮時間”を“漁村時間”に換算すると何年になるのかという点には触れず、ただ「おじいさんになってしまいました」としか書いていなかった。二人とも顔を見合わせてガッカリするが、お互いの瞳がキラキラしていることを確かめると、再びしょうもない向学心を取り戻す。まったく、こんなに仲良かったのに、どうして言えなかったんだろう。千春さんが大好きだって。それが高校生なんだよねえ。
 業平先生によると、太郎側の時間の感覚で「3年」くらい乙姫と楽しく過ごしていたというものが、漁村の「数百年」に相当したというのは間違いないと謂う。従って、仮にここでは分かりやすく竜宮の100倍という設定にすれば、白い煙に含まれていた時間は3年×100=「300年」ということになる。「あれっ?おかしくない?玉手箱の中身が300年だったとしたら、っていうか200年割り引いて100年だったとしてもだよ、蓋を開けた太郎は死ぬはずじゃん。お爺ちゃんじゃ済まないでしょ。」「それっ!私も今、アナタとおんなじこと考えてたの。」「いや~、クラス1の秀才と同じこと考えていたなんて光栄です。」「だから、止めなさいって!その言い方!」と今度はお尻を平手打ちされた。この上なき心地良さであった。彼女の掌の感触が残る部分をズボンの生地の上から幾度も自分の掌で摩った。太郎はきっと300年分の煙を全部浴びたわけでは無く、このうち250年分くらいは太郎の皮膚に触れることなく空中に消えていった――それが千春さんと私で出した結論だった。
 
 かき氷を掻き込んでも暑い。本屋さんで涼んでも暑い。急行を待つ駅のホームで二人とも汗ばんでいる。彼女の濡れた首筋に、カールした後れ毛が貼り付いている。その傍らで息を呑む私には、この2~3分が2~3時間のように感じられてならない。「2時間もかけて、太郎は煙を全部は浴びなかったって、そんな当たり前の結論かあ。でも、この2時間は200時間くらいの価値があったな。楽しかったわ、ありがとう。」横でそう囁くのは、海の中から飛び出した、岡の上の乙姫様。私の恋も岡惚れだったのだろうか。いやいや、小さじ一杯程度は彼女にモテていた筈じゃないか。卒業後、街角で偶然に千春さんと再会することは無かったけれど、私の鼓動は小椋佳の『時』を、まるで壊れたレコードのように繰り返し奏でていた。急行を待つこの二人の生まれた年に発表された切ない名曲だ。
 「それにしても、古文の前が英語だろ、英語の前が美術だろ、美術の前が…あれっ?今日の1時限目って何だったっけ?」と私。「しっかりしなさいよ。アタマが電力不足なんじゃない?」と彼女。――そうだ、物理だった。
 電流を流すと仕事をする。そんな話だったな。電流が仕事をして発生した熱を「ジュール熱」と呼び、Q〔J(ジュール)〕=Ivt=I²Rt=V²/R×t〔J〕という式をジュールって人が見出した。1Jは物体に1N(ニュートン)の力を加えて、1m移動させたときの仕事らしい。で、VIを電力と呼び、VItを電力量と呼ぶそうだ。しかし、私の脳はずっと停電中であった。
 あれから凡そ30年――私は現在サラリーマン生活に退屈し、小さじ一杯程度の労働意欲で何とか勤続している。今こそ千春さんの電流が欲しい。ビリビリ刺激を受けられたなら、多くの仕事量も難なく熟すであろう。横に居る彼女が汗ばむくらいの熱で、そりゃ何ジュールでも働くよ。高校時代は勉強がしんどかったから、もう二度と戻りたくはない。けれど、千春さんという乙姫様との夢のような日々もあったから、卒業して現実の世界に戻った私は一気に年老いてしまったのかもしれない。まあ、実際にはそんなこと無いのだろうけど、もう本当に年寄りが現実に迫った年齢ともなると、そんなふうに思えてくるのだ。
 いや、労働意欲のあった頃――正確に云うと収入への執着から懸命に働いていた頃――に遡ったところで、会社の仕事というもの自体に「やりがい」の類を感じていたかというと、それは若い時分から首尾一貫して、そうでも無かった・・・つづく

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