見出し画像

【夏休み】何1つ 成し遂げられず 悟り酒

 あの冬休みの帰省から何年、いや十何年もが過ぎ、私は夏休みを過ごしていた。会社というのは有難い。何もすることの無い私にも平等に1週間の休暇をくれる。
 「1週間くらい何も考えないでゆっくりしてこい。近頃じゃ、このオレだって会社に言われて育休を取る時代なんだぜ。子供が生まれりゃあ、女も男も休む。休むだけじゃねえぜ。カネの面でも、税金を優遇されるどころか、色んなもんがタダだし、手当まで支給される。オレは自分にガキが3人もいるし、国やら会社やらが子育てを後押しすんのも別に反対じゃねえけどな、そもそも休みとカネを貰えるからって理由で子供を儲けたわけじゃねえよ。だからな、休みとカネが少子化対策になっているとは思っちゃいねえんだ。子供を増やそうっていう目的を果たすために、子供を産む人に何かを与えるって手段を使うのは、それこそ子供でも思い付くようなことじゃねえか。少子化みてえな難しい課題を克服しようっていうときにはな、対象外の連中も仲間外れにしねえで、全員を巻き込んでムードを作っていかねえとな、あれこれやる割には物事が1つも前に進まねえんだ。そんなもん、組合の執行部を経験したことのある奴なら誰でも解ってる道理じゃねえか、なあ。オレはな、みんなが留守の間にも、毎日会社来て、誰かがやんなきゃなんねえ仕事を休みの奴に代わって黙々と引き受けて、マジメに税金納めているオマエみたいな奴に対してな、感謝の気持ちを忘れちゃいけねえと思ってるんだ。オマエも間接的に職場の仲間の子供を育てている大事な存在なんだぜ。だから、夏休みくらい堂々と取れよ。だいたいな、生涯未婚率がこれだけ上がってるって言うのに、しかもだな、結婚できたとしても子供まで授かる確率となったら益々低くなっていく世の中だっちゅうのに、将来的に多数派になっていく可能性が高い独身で子無しの連中を軽視した政策が成功するはずねえじゃん。」・・・私は「夏休みは有難いけど、子供がいるわけでもないし、どこかに遊びに行くこともない」みたいな世間話をしただけだったのだが、いつもの居酒屋で夏川さんはこのような言葉を掛けてくれた。多少の棘があるものの、彼の持論は大きな真実を捉えているというのが、まさに中年独身である私の感想だった。励まされているのか、貶されているのか、咀嚼を要したけれど、確かに「休みとカネを貰えるから、私と結婚して子供を作りませんか?」っていうプロポーズをする奴もいなければ、「そのとおりですねえ」と応じてくれるような相手もいるはずがないわけで、先輩の云っている事は1つも間違っていない。
 私は夏川さんの話に聴き入ってしまい、そんな前日の酒を見事に引き摺る形で、1週間の夏休みの初日を迎えた。二日酔いの勢いで午前中に洗濯と買い物だけ済ませてしまうと、本当にやることがない。というより、とにかく脳内全域に蜘蛛の巣が張られたような体調で、何かをやりたいなんて気分にならない。結局、毒を以て毒を制す。午後から迎え酒をやらかしてしまう。不思議なもので、缶チューハイ1本の炭酸で胃を刺激してしまえば、あとのウーロンハイの進み方が驚くほど速い。つまみは味付け海苔と梅干。これではクリスマスイヴの夜に冬さんと呑んだドヤ街の角打ちよりも酷い。昼寝をしてから、何となくテレビを点けると、お盆の観光地の様子を眺めながら、また飲む。こんな調子で2日目が終わり、3日目が終わる。両親が他界し、兄弟もいない私には、故郷があっても実家がない。帰る場所がないわけだから出かけない。妻子がいれば、義理の父母へ孫の顔を見せに帰るというイベントがあっただろう。山にも海にもプールにも花火にも遊園地にも行かず、酔っ払いのやることはその賑わいを伝えるテレビをひたすら視聴するのみ。4日目が終わり、5日目が過ぎて、とうとう冷蔵庫の食料が尽きても、今度は棚の端っこに残っていた缶詰を開けたり、乾麺を茹でたりして、冷房の効いた部屋で殆ど汗をかくこともなく、なおもアルコールを口に流し込み続ける。こうなると、もはや家から一歩も外へ出たくなくなってしまうのだ。
 こんな生き方でも1週間はあっという間に経過する。何もせずとも会社で働きたいというわけではない。何もせずとも休みは欲しい。だが、終わってみると、さすがに無駄な休みだったと感じ、怠惰な生活による全身の痛みとともに、取り返しのつかない後悔までもが全身を襲った。これほどまでに何もしなかった夏休みは人生で初めての経験である。・・・んっ、待てよ・・・この夏、私は人生初の経験をしたのである。強いフラッシュを浴びた後、網膜に残像が焼き付いて離れないことがあるが、ちょうどあんな風に光の粒が目の前を泳いでいるような状態になるまで、一人で酒を浴び続けた。酒で目がチカチカしたのも人生初の経験だった。これでよくもまあ生きていたものだ。そうだ、この1週間、私はちゃんと生きたのだ。それだけでも価値のある人生ではないか。そして明日は髭を剃り、ワイシャツに袖を通し、嫌々ながらも普通に出勤するのだろう。「夏休みはこう在りたい」「余暇たるもの、斯くあるべし」といった一種の「煩悩」を消し去ってみたら、悩み事とは無縁の1週間となり、人生が途端に楽になった。これぞ涅槃寂静、釈迦の開いた悟りではないか。
 苦行の末に達する境地もあれば、堕落の末に達する境地もある。テレビの下での深酒と菩提樹の下での瞑想を重ねるような無礼千万な思いは毛頭ないが、この1週間の夏の初体験は、凡人である私に「苦行と堕落の違い」を平易に説明できなくさせてしまっていた。事実、酒という欲に塗れつつ、何かをしたいという欲を捨てることができ、諸々の先入観の束縛から解放されたのだ。眼がチカチカするほど呑んでみたら、シャカに1ミリだけ近づけたのだ。チカチカ、シャカ、チカチカ、シャカ。
 愛する相手と一緒になり、幸せな家庭を築くことができなかったけれど、そういう幸せも諸行無常だ。好んで独身を続けているわけでもないのに、結婚休暇・産休・育休の方々の仕事の穴を埋め続け、その方々のために使われる税金も払い続けているけれど、この社会は諸法無我だ。「思い通りにならない私の人生は幸せだ」とそこそこ感じられるようになれたのは、この夏のおかげかもしれない。
 
 ・・・よほど天賦の才能に恵まれていない限り、先発ピッチャーが百球を超える全てをフルパワーで投げ切ることは不可能だ。給料欲しさに死ぬほど頑張って働くとしても、本当に過労死してしまってはバカバカしく、結果的に誰の利益も生み出さない。そうなると、程々に手を抜く投球術が必要になる。自分にどれだけの労働能力があるかを正確に把握し、その力の調節機能も併せ持つことが求められる。
 夏という理由だけで1週間これだけ無意味に休んでも、会社は25日になると月給を私の口座に振り込む。むろん適当に仕事をしているわけでは決してないのだけど、仏様の前で真実この月給に見合った仕事をしていると誓いきれるだろうか。蓋し、会社というのは、毎日平然と浅い知恵しか持たず、会社の業績向上に本気で貢献したいという意欲にも欠けた私のような人間に溢れている。有名大学出身で若いうちに頑張ったという過去の遺産で大企業に入り、頭抜けた出世もしないが、サボっているわけではないので、降格もしない。こうした自省がある社員ならまだマシだ。就職活動のときに景気が良かったというラッキーだけでタダ飯を食い続けているような連中も抱え込んでいるのが、大企業というものである。“アホ”も“かしこ”も一緒くたに養っていける集団を形成し、社会主義的資本主義を維持しているこの「状況」は、気持ち悪いほど不思議でつくづく感心させられる。
 この「状況」を維持し、会社の好む「成長」とやらを具現化するには、可能な限り“かしこ”を採用しなければならない宿命にあるのだけど、あまりに優秀な学生ばかりを集めてしまうと、本人の理想の高さに会社の「状況」が追い付かず、離職率が高くなる宿命とも向き合うことになる。何も旧帝大の理工系で無くてもいいから、何も外国語に堪能で無くてもいいから、根性のある普通の学生を採用すればいいのに、と思う場面が多くなったのは、私が歳を取ったというよりも、私自身が貧乏人の倅だったからだ。多少の壁にぶつかっても「仕事なんだから真剣にやって当然」という常識を備え、言われたことだけでもきちんとやろうとするだけで、まずサラリーマンとしては及第点なのだ。実はこれだけでも凄い根性であって、また根性の最大の材料は結局のところ「収入への渇望」に尽きる。そして、言われたこと以上の仕事、即ち会社の好む「主体的に」「社業発展に向けて」「革新的なことにチャレンジする」といったタイプの仕事は、「会社が生きがいだ」と感じることに成功した連中、所謂「高いモチベーション」とやらを持てる連中の役目として、彼らに任せればよい。「命じられた仕事をこなすだけでなく、もっと主体的になれ」と会社側から命じることによって、主体的なフリをするだけの社員を増やすような経営手法が愚かしいことは一目瞭然だ。
 
 一方、会社というのは我慢強い人材を欲しがちだけど、その我慢強さが会社に役立つとは限らないところもまたジレンマである。そのような人材は消費者としても我慢強いため、商品開発やサービス向上には適さない。社会的順応性が高ければ高いほど、会社にとっては好都合かと思いきや、実は今の世の中のままで満足できる性格が災いとなり、会社が目指す「利便性の追求による増収増益」とやらに心からの興味関心を抱くことが難しい宿命にある。
 私は・・・遡ることまだ20代前半、歌舞伎町の破廉恥な店に挟まれた地下にある安い居酒屋で「ねえ、たまにはワイン飲まない?」と春代が珍しい誘いをしてきた夜を想い出していた。「此間ね、深夜のテレビショッピングで自動のワインオープナーみたいのを宣伝してたの。でね、『以前は主人に頼まないとコルクが固くて抜けなかったんです』とか言う感想インタビューが流れたときにね、ついつい『そんな奴はワインを飲むな』って呟いてしまったのよ。しかもね、これだけで終わらせずにね、ワインのネタで攻め続けるところがこの番組の凄さなの。『酸素はワインの大敵!風味を劣化させないためにオススメ!』とか言って、ワインストッパーもセットで販売するの。そう、ボトルの中の空気が抜けるやつね。これにもついつい『1本くらい1日か2日で飲み切ってしまえよ』って呟いてしまったのよ。私って部屋ん中でこういうイヤ~な独り言を吐き捨てるタイプの女なんだって、自分にゾッとしちゃった。今日はあなたと一緒だからこのボトルもカンタンに飲み切っちゃうわね。でもね、若くて柔らかいアタマよりも、日常生活の不便さに我慢の利かない年寄りの固いアタマのほうが、ああいう便利グッズを生み出すのに必要な要素のような気がしたわ。」・・・全く同感だった。私という人間も大抵の事象に対して「まっ、こんなものだろう」という受け止め方で片付けてしまい、元来それを我慢とも思わない性格なので、「これがあったら便利なのに」といった感情や欲求自体があまり湧かない。
 とどのつまり、本当は大きな不満も無いくせに、会社の方針に従って、敢えてワガママな消費者の演技をしていられるというのは、よほど“頭の良い奴”の為せる業なのである。それも会社がそれだけの報酬を出すから為せる業なのである。勉強ばかりの人は学者やら官僚やらになる。弁舌ばかりの人は政治家やら芸人やらになる。スポーツばかりの人は選手やらトレーナーやらになる。では、何でも器用に出来る人は何になるかというと、実は日本の超一流企業のトップサラリーマンだったりする。十何年か前のあの冬休みの頃までは、私もまだ若く、心の何処かで「会社における頭の良い部分」を担おうとしていたけれど、“頭の良い奴”というのは山ほど居るわけだし、ようやく「もう無理はせず、賢い役割を演じるのは奴らに全て任せよう」という心境に達している。
 
 「カネをくれるから付き合ってもいられる。就職って愛人契約なのよね。」41歳の独身男が夏休みの蝉しぐれの中から当時21歳の春代の呟きを回想する。そう、この会社に入る前、私はあの大学に居た。それが無駄だったかというと、そうでもなく、意外と生真面目な学生だったほうで、時に右手の小指球を真っ黒に汚すほどノートにメモを取っていた。これが過去の遺産というやつだろう・・・つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?