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【宿題】死せる父 生ける我が子を 走らすか

 父が亡くなった時、私は入社2年目の春を迎えたばかりで、小僧に斉しい頃だった。すでに親戚という親戚は殆ど他界していて、残り僅かな者もみな縁遠かった。「遠い親戚より近くの他人」とは誠に的を射たもので、侘しい葬儀を手伝ってくれたのはご近所さんだった。
 「東京の人は冷たい」とか「地域の繋がりが希薄だ」とかいう評は誤解だ。土着の東京人には独特のコミュニティがあり、その関係は年越し蕎麦のように切れやすくも細く長く「そば」に居るような感じである。京都に転勤してみて体感したが、かつて首都だったこの街の人付き合いにも、実は東京のそれに酷似したところがある。近過ぎず、遠過ぎず、「間合い」が丁度良く、心地良いのだ。「京都人には表と裏がある」とかいう評は誤解だ。「裏がある」と相手に気付かせているのだから、その「裏」というのは「表」面化しているわけで、ある意味「隠し切らない裏」にこそ礼儀作法が見え隠れする。だいたい茶道にも表と裏のある街である。東京人のせっかちな直球も、京都人の遠回しな変化球も、言葉遣いというボールの握りが異なるだけで、腕の振り方は同じなのだ。故に、投げ下ろされたボールは打者を惑わせ、打席に立った者は口々に東西の違いを論いたがるのだが、東の京都と書いて「東京都」と読むと言っていいほど、実は両者は似たタイプの投手なのである。全国から集まる余所者を受け入れなければ生きていけない「都」育ちの投球術は、人間関係を円滑に保つために洗練されてきたはずであり、「京都人は余所者を受け入れない」のでは無い。その真逆だ。
 
 父の人生は年越し蕎麦とは真逆だった。太く、短く、同世代に比べて成長も老化も頭の回転も速く、職人だったので現玉払いの給料を手にすると、家計へ納めるより先に競馬で擦ってしまうような人だったが、借金の仕方が巧みだった。金貸しを生業としていない周囲の友人、即ち「ご近所さん」と呼んでも可笑しくないほど世話になっていた方々から、カネまで世話になっていたのである。もちろんサラ金にも手を染めていたが、こちらのほうは、父が酒に躰を蝕まれ、仕事からも離れてしまった晩年になって、累積額を全てゲロし、同じ博打でも土地や株の商売でそれなりに財を築いていた血縁に土下座をして肩代わりしてもらった。この日を境に、電話機に三枚重ねて座布団を掛けても、掛かってくる取り立て屋からの着信音に容赦なく鼓膜を侵掠される日々からは解放された。どうして電話線を抜かなかったのかというのは愚問だ。携帯電話なんて無かった時代のこと、何本かに1本は、生活を支えていた母のパート先からの連絡かもしれないし、あるいは家にも帰らず競馬に明け暮れている父からの連絡かもしれないからである。幼い頃から、私は「競馬」には「付馬」が付き物であることを自然に学んだ。悴所帯だった我が家の小倅、即ち私が大学まで行けたのも、この血縁が学費を援助してくれたおかげであったが、身内からの工面というのは奨学金よりもややこしい「利息」に耐えることを意味する。父の死と同時に、今度は血縁から嫌がらせの電話を受ける日々が始まり、これとて電話線を抜くような無下な対応で躱すわけにもいかず、母が精神的に追い詰められる前に、本意ではなかったが夜逃げ同然で絶縁してしまった。
 迷惑ばかり掛けていた父だったので、火葬場で骨になるのを待っている間、ご近所さんが冷酒を吞みながら「死んで良かった、ホントに・・・うん、死んで正解だった」と心から絞り上げるように感想を漏らした。私も母も、不思議と腹が立たないどころか、ご遺体を勢いよく燃やす炎の如く、腹を捩って哄笑してしまった。これぞ、適度な間合いを取りつつも、腹を割るべきときは互いにしっかり割って支え合ってきた東京人のご近所付き合いを象徴するかのような出来事だった。
 私は父を軽蔑していたわけではなく、寧ろその真逆だ。グラスに焼酎を注ぐと、中の氷がパチパチって音を立てて罅割れる。それが泣いているようで、早く救ってやらないと可哀想だからと言って一気に飲み干す。そんな憎めない気質なものだから、カネまで拝借できるほど色濃く仲間に好かれていたのは紛れもない事実だ。救われていたのは焼酎まみれの氷ではなく、借金まみれの父のほうだった。それに、社会的には救い難い阿呆だったが、それに輪をかけて私への愛情の深さは阿呆の度を通り越していたものだから、私にとっては唯一無二の貴い父親だった。そんな父の人間臭さは無論ご近所さんも認めていた。悔いは無かったが、父の死を誰よりも偲んでいたのは私だった。
 常に忙しそうにしていた母から私を預かり、もう一人の母親と言っても過言ではないほど親代わりとなって私を育ててくれた「ご近所のおばちゃん衆」だからこそ、火葬場の待合室で「死んで良かった」と笑いながら、元気だった頃の父を偲ぶことが出来る。称賛も、悪態も、どちらも包括して父への有難き評価なのだ。・・・母の時にはそれが無かった。私の他に誰一人として居ない葬儀だったのである。振り返れば、父が亡くなった後の母子の時間は濃密だった。不本意なあの絶縁の後、故郷から母を引き離すのもまた本意ではなかったが、かといって会社での担当職務がやや特殊だった事情なんかもあって、私が京都から東京へ異動する見込みもない中、覚悟を決めて購入したマンションに母を呼んだ。東京に無い趣を味わえば幾許か寂しさも紛らうだろうと、数年のうちは母子で古都の寺社仏閣を巡りながら楽しく過ごせたものの、母はやがて肺を患い、私の拙い介護も虚しく息を引き取った。各々母と等しく歳を重ねて今や身軽に動けないご近所さんを京都にお招きするわけにもいかず、冥土間近の半年は電動ベッドから殆ど起き上がれなかった母と久々に外の空気を吸いに出かけるような感覚で、二人きり火葬場へ行くと決めたのである。
 
 二時間くらいだったろうか、呼吸を止めた母と明け方までは二人きりで過ごし、訪問診療の先生へ電話で死を伝える。駆け付けて下さった先生は死亡確認を終えると、酸素吸入器の管を鼻から外し、看護師さんとバトンタッチした。一緒に、寝巻を脱がせ、母の躰を拭く。見慣れたはずの母の躰だったが、こんなにも瘦せ細っていたのか。いったん俯せにすれば、どうしても防ぎ切れなかった床擦れで赤く剥けてしまった腰の背後が痛々しく、再び仰向けにすれば、十年前の乳癌で失った左乳房の痕などは直視できなかった。いくら息子とは言え入浴の世話を男の私にさせるのは嫌がるだろうと、専門のヘルパーさんにお願いしていたのだから無理もない。大切な所は看護師さんにお任せし、私は棒切れみたく横たう手足を拭いていた。死化粧を済ませた頃、約束の時間よりやや早く葬儀屋さんが一人で訪ねてきて、看護師さんとバトンタッチした。今まで世話になった礼を伝えながら看護師さんをマンションのエントランスまで見送ったあと、部屋へ戻ると、もう棺が完成していた。この葬儀屋さんの手際の良さと親切な対応には助けられた。
 母は悲しくなるほど軽かった。葬儀屋さんと二人でキャスター付きの寝台に乗せ、エレベーターで階下へ運ぶ。父の時にはエレベーターの奥行きに閊えてしまうので、棺を縦にしたものだが、ウチのマンションのそれには非常時のトランクが付いていて、すでに管理人さんが開放してくれていた。この管理人さんにも日頃から世話になっていた。管理人さんと、お掃除の小母さんと、この二人が住民同様に世話している植え込みの花々だけが、この数十秒間の葬儀の参列者だった。さあ、母子水入らずで最後の散策路は行楽日和だ、と言いたいところだが、葬送シーンを撮るドラマの演出家なら雀躍するような冷たい雨模様だった。とても霊柩車とは判らないが、品のある黒檀色を身に纏ったボックスカーが東山へと出発する。母の棺に右手を添えた私一人の後部座席に向かって、運転席の葬儀屋さんが話しかける。「京都も洛中は一方通行だらけですやろ。昔の話ですけんど、東向きの細道でも、ご遺体が家を出はる時だけは例外で、一度西向きに逆走してから中央斎場へ迂回するゆうのんが許されてたんですよ。」ワイパー越しの五条通に目を遣りつつ私が返す。「それ、西方浄土っていうことですか?」「いや~、ご名答。今はただの道交法違反どすえ。警察も何もしてくれはらしまへん。」
 運転手さん、否、葬儀屋さん曰く、ティッシュに包んでも構わないとのことだったけれど、引出しの奥に白無地のポチ袋が残っていて良かった。言われた通りに用意しておいた三千円を火葬場に常駐しているという御坊さんに手渡すと、まるで自販機のボタンを押したかのように、いきなり御経が始まった。三十秒くらい経っただろうか、短い御経が終わると、「どうぞお別れを」と促されるまま、棺の小窓を開く。あれほどまでに肺病に苦悶し続けた母が、これほどまでに穏やかな顔・・・御坊さんと葬儀屋さんだけが手を合わせる中、私は人目も憚らずに泣き崩れた。朝一番の火葬場で、たったの三人だろうと、たったの三千円でたったの三十秒の御経だろうと、今、私の流すこの涙をどうぞ供養と受け止めてほしい。私はこの時「何のために生きているか」については、辛うじて確たる答えを持っていたが、「誰のために生きているか」については、とうとう「私」以外の全員を喪った。人は「自分のため」に生きているけれど、そうは言っても人生が苦しい時ほど「誰かのため」を生きる理由にしたくなるものであり、父母も兄弟も親戚も妻子も一切いない孤独に馴染むには相応の時を要する。
 ・・・涙が枯れると――そう、本当に枯れ果てるまで泣いた、泣き疲れるという表現に寸分の違いもなく疲れ果てるまで泣いた経験は、人生でこの一度きりだったが――その涙の泉が涸れた頃、私は両手の平に収まるほど小作りな骨壺を抱いて新幹線に乗った。新しい母の住処は谷中の共同墓地である。
 
 乞食坂を下り、日暮里駅の反対側へ抜けると、もう1つの用事が待っていた。私の胸元には白無地の封筒。今度は三千円ではない。三百万だ。ボーナス2年分だと思えば安いものだったが、まさか父の親友への借金がまだ残っていたとは。存命中の恩義があるだけにご破算とするわけにもいかなかった。駅前ビル二階の喫茶店から勇ましい太田道灌の騎馬像を見下ろす前で、老境の男が申し訳なさそうに札の枚数を確かめる。私は彼との再会を福音にこそ思えども、怨恨を抱きはしなかった。かつては羽振りの良かった彼だが、一度は呉れてやったつもりのカネを掘り返し、故人の家族からの返済に頼らなければならない程の生活苦に悩み抜き、その結果、この場に辿り着いているわけである。父の「借金の仕方が巧みだった」というのは、まさにこういうことなのだ。三百万と引き換えに、ボロボロになった借用書がアイスコーヒーの横へ静かに差し出された。間違いなく父の筆跡だった。ゴールデンウイークの東京は山吹の季節だったが、私の心持ちはと言うと「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに 無きぞ悲しき」といった様相だった。私の「宿題」はこれで全て終わった。
 再び独り暮らしに戻った京都のマンションへ帰宅すると、すでに他界した親族一同で「満室状態」になっている仏壇に、最後の入居者となった母の位牌を納めた。線香を立てて私は呟く。山吹の花言葉が「金運」だなんて皮肉なものだ。誰かにとっての運とは、他の誰かにとっての不運に過ぎないことを思い知る春だった。
 運も不運も、幸も不幸も、渾然一体なのだと教えてくれた春代の残像が、咲き誇る山吹の中から出現する。別れて15年以上にもなった今頃、ふと彼女の言葉がボディブローのようにぶり返すのだった・・・つづく

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