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【現代文】疲れても 憑かれたように 働いて

 入社3~4年目の頃は仕事中毒患者の如く働いていた。「如く」と表すのは、仕事中毒そのものでは無かったからだ。「仕事しないと落ち着かないから」とか、「仕事が楽しいから」とかでは無く、単純明快に「カネが必要だったから」懸命に働いていたのである。
 出張先では営業に明け暮れ、どうせ眠るためだけの宿泊先にはベッドに虫の湧くようなビジネスホテルを選んだ。所謂“木賃宿”というやつである。会社の出張旅費は実費精算でなく、1日あたり固定額の手当制だったため、少しでも差額で稼ごうという涙ぐましい努力だったが、当時の私にしてみれば当然の事として苦にも感じなかった。1週間のセールス活動を終えた金曜日、長野新幹線に飛び乗って大宮に在る北関東支社に帰社すれば、報告書の作成や次の商談資料の準備といった事務に明け暮れ、常に終電が友達だった。埼京線が終点の池袋駅へと近づくと、いつも通りに合流した山手線と暫し並走する。すぐ隣を同速度で南下する車両の窓が鏡代わりとなって、私を乗せた埼京線の行先表示がすでに「回送」へと切り替わっている姿を映す。きっと山手線の乗客には「回送電車に乗っている私の人生」が滑稽に見えていることだろう。ホームの端に降り立つと、錆付いたレールや夜間作業の重機が「渋谷まであと7駅の辛抱だぞ」と応援してくれていた。
 
 父が亡くなると同時に、父の血縁が所有していた家を追い出され、というより毎日のように受けていた嫌がらせの電話から逃れるため、中古マンションを購った。母の暮らしを踏まえるとご近所との繋がりを断ち切るのは忍び難く、地元を離れる選択肢を回避した結果、築45年とはいっても渋谷区内――それなりの値段だった。一部上場企業とはいっても確たる“実績”を証明できない新入社員だった私に住宅ローンを組んでくれた銀行には今でも感謝している。
 ローンを完済したときの悦びは一入だった。このような悦びを「達成感」というのだろうと、私は自らの感情を噛み締めつつ、抵当権の外れた登記簿を飽きもせず眺めていた。必死で働き、20年分の借金を3年で返し切ったのである。最終の返済は、母――つまり代理人――ではダメらしく、当時は忙し過ぎて滅多に取得できなかった有給休暇で私が銀行へ出向いた。その割には本人確認も行われず、庶民にとっては巨額の手続きも最後はあっけなく終了した。担当者の「ありがとうございました」の声を背に自動ドアの外へ飛び出すと、ただでさえ猛暑の中、見ているだけで疲労するような雑踏であったが、私一人が噴き出る汗すら爽やかに受け止められる程、解放された気分に浸っていた。端的に身軽になってホッとした気分なのだが、この気分に適した修飾語が見付からない。それは人生で初めてのタイプの達成感だったからである。サラリーマンになれば、毎月25日には自動的に給与が振り込まれる。大きなミスをしなければ降給の心配も無い。それでも貯金を怠れば、繰り上げ返済なんて到底出来たものでは無い。こうした環境下での達成感は、受験戦争の中で合格を勝ち取った時の感覚とも何か違う、就職戦争の中で内定を勝ち取った時の感覚とも何か違う――則ち、コツコツ努力を積み上げる点では同じだが、短期間における実力の完全燃焼によって獲得する栄光とはやや趣が異なるのである。中学の3年間、高校の3年間、大学の4年間とは明らかに異なり、サラリーマンという生活は“卒業”までの期間がやたらと長い。その長い道のりを歩まんとする私の中で、「成功しようとする人生」に「失敗しまいとする人生」が加わった感じがして、それが妙に新鮮だったのだ。
 銀行から家に戻ると、すでに母はパートに出掛けていた。昼食には「適当にチンして」の置手紙とともに大好物のグラタンが用意されていた。たとえ老朽マンションであっても自分の“城”となった部屋の中で初めて食すグラタンの味は格別だった。ホワイトソースの中に若干のミートソースも重ねられていて、ギリシア料理の代表格「ムサカ」にも近い。あの日のあの味は生涯忘れまい・・・
 
 「キュプロス島の王・キニュラスが、黒い衣装で身を隠して自分と十二夜を共にした女が、娘のミュルラであることに気付いた場面に、次のようなことが書かれている。
 
   国王の立場としては、タブーを犯したものを生かしておくわけにはい
  かない。見のがしては神々の怒りを買うことにもなろう。
 
 なぜ見のがしてはならぬのだろう。ミュルラよりももっと巧みに自分の姿を隠して、数々の女に勝手気ままに手を出す浮気者のゼウスの方が重罪を犯しているように思えるが、それでも神は自らの邪淫を棚に上げて、人間ミュルラを断罪しようとするのだろうか。
 これに関しては、貞淑な人妻・アルクメネを同じくゼウスが抱いた話で、すでに次のように述べられている。
 
   ギリシア神話の常識に従えば、神の不貞は許されるべきものであり、
  その寵愛を受けることは、むしろ名誉に値することでもあったのだ。
 
 つまり人間に対する神の優越という前提条件を捨てない限り、美女に対する男神の、そして美男に対する女神のどんな気まぐれなちょっかいも、正当な、もっといえばありがたい行為になり得るのである。
 しかし、そのありがたい行為に地界の人間は苦しめられているのではないだろうか。ヘラクレスの話を例にとっても分かる。」
 ――おっと、いきなり面白い書き出しではないか。現代文の鬼教師による読書感想文の宿題。高校2年生の2作目は、阿刀田高の『ギリシア神話を知っていますか』であった。30年以上が経過した今、もう読んだことすら忘れている。引用文は原稿用紙の両側一行および上二字分をアケル、というルールがきちんと守られ、鬼の指導の徹底ぶりが窺える。
 48歳、中年の恋、今の私にとって中学時代の同級生・春子さんは「女神」。それ故、彼女が仮に「不貞」であったにせよ、私は「名誉」なこととして有難く受け止めるべきなのである。まあ、まだ手すら握らない関係だけれど。――その辺りの人間臭はさておき、続きの原稿用紙を捲ってみようではないか。
 
 「ヘラクレスはゼウスとアルクメネとの間に生まれた最強の勇者だが、ゼウスの浮気への不満からその妻・ヘラが勇者の誕生を遅らせたために、卑劣なエウリュステウスが一族の支配者となり、ヘラクレスはあらゆる苦難を強いられる結果となった。もしヘラクレスが神の子供でなかったら、その知力と腕力は授からなかったものの、重荷を背負って生きずとも済んだのではないだろうか。
 神の力が加わらずとも、人間界にも同じことが言えそうな気がする。上流階級に生まれた子供は素晴らしい環境の中で優れた人間に成長するだろうが、生まれた時からある程度の社会的地位を約束されているだけに、人生に味がないだろうと思う。反対に、経済力に乏しい家に生まれ十分に能力を育てられずとも、その子には自分の信じた道を進む夢がある。もちろん例外はあるし、どんな生き方をするかは個人の価値観にも左右される。ただ、神も人間もどちらも、生まれてくる一人の子供の運命を何らかの形で操っていることに変わりはない。」
 ――いやはや、これには参った。無論、当時の私も、オトナになった現在の私と同じく、あの母、あの父の間に生まれてきたことを感謝し、誇りに思っていることは間違いない。なんせ中高生の私には一貫して反抗期なるものが訪れなかったくらいである。だから、両親に学歴も無く我が家が貧乏だったという「環境」に文句をぶつけたい訳では無かった筈だ。にしても、「上流階級に生まれた子供は(中略)優れた人間に成長する」の後に「可能性が広がっている」でも無く「確率が高い」でも無く「だろう」と言い放っているのは、当時の私が只管貧乏からの脱出のために勉学に励んでいた影響だろうか。それとも端的に権力者や金持ちに対する反骨精神なのだろうか。確かに的外れな見解ではないけれど、放っている矢に威力がある。31年前の私に伝えたい。「その矢のような勢いで頑張れ。オマエの父は7年後に亡くなるが晩年に温泉旅行へ連れて行くことが叶うし、その後も母にはオマエの目指している親孝行ってやつがそれなりに出来るようになるし、渋谷にも烏丸にもマンションを持てるようになるから。」と。さあさあ、続きを捲ってみよう。
 
 「ところが神は人間を超越した能力をもっているので、当然ながら人間が人間を左右する運命さえも神の導きにすぎないことに気付く。つまり運命の支配者が神という存在だとする限り、人間は神を否定することができない。それは自らの運命とその拠りどころを否定することになり、自らを苦しめるからである。」
 ――いやはや、これにも参った。オトナになった現在の私には到底思い付かない分析と文脈である。全ての中高生は哲学者。是、なるほど納得である。さあさあ、続きを捲ってみよう。
 
 「運命の支配者は尊敬される立場、よって善の味方でなければならない。私の感覚からいえば、全ての世界を包み、受け入れ、いつも人情の介在しない涼しげな表情を浮かべて、人間を見下ろしているのが神である。そして我々がちょうど寺社に参詣するとき、背筋が伸び厳格な気持ちになるように、神と人間との間にはいつも近づき難い距離があるものだと思っている。
 ところがオリンポスの神々というのは、浮気者がいたり、いたずら坊主がいたり、実に人間味にあふれている。もちろん神殿建築などに人間の神々に対する尊敬の念は表れているが、私が何よりも驚いたのは、神も性欲をむき出して人間との間に子供をつくるということである。自らの欲するままに行動するような神に神託を求めることなどできないと私は率直に思った。現に神を否定する思想が次のように述べられている。
 
   神が――この世を作った造物主が――どうあろうと、人間は人間の判
  断に従ってこの世を引き受けて行こう、(中略)人間はそれを頼りに人
  間として生き抜くよりほかにないではないか。
 
 神の存在が不明確なことばかりが、このような二十世紀的な考えの根拠だとは思えない。自分たちが古くから信じているものと異なるからという理由で、他の思想を全面的に否定することもできない。ただし人間が人間としてしか生きられないことは真実のようである。
 日本人は信仰の厚い人とそうでない人とに分けられると思う。後者は前者を否定しがちである。最近話題の新興宗教にしても、その悪い部分だけを抜き取って信者を軽蔑視する風潮が完全にないとはいえない。クリスマスを祝い、そのあとすぐ初詣に出かけるほとんどの日本人の方が、宗教に対して無神経なのではないだろうか。もし、ある宗教の信者が急激に増えて一大勢力となれば、今までその神を否定していた人もやがて認めることになるだろう。人間なんていうものは、それほど弱き者なのである。」
 ――これで原稿用紙5枚余り。一度たりとて「かもしれない」とは結ばずに「である」と言い切る。全体を流れる断定的な論調は、17歳らしい自信が漲っているということだろうか。「最近話題の新興宗教」とは明らかに「オウム真理教」のことだろう。この感想文を残した約1年後に松本サリン事件、さらに高校の卒業式の約2週間後に地下鉄サリン事件が起きている。あの犯罪集団に対してすら「信者を軽蔑視する風潮」に警鐘を鳴らそうと試みている辺りは、当時の私がすでに洗脳の恐怖感と危険性を自覚している事実を証明するに十分である。故郷・渋谷はあの教団の設立の地であり、渋谷区を含む東京都第4区からあの教祖が衆院選に出馬したのは私の中学1年生の終わり頃であった。ハチ公前、即ち我が家のすぐ近所で強烈な街宣活動が展開される。その熱心な信者の多くが私より干支ひと回りくらい上のお兄さん・お姉さん達で、皆がキラキラとした元気に満ち満ちて、物見遊山に来ていただけの洟垂れ小僧だった私に優しく接してくれる。しかも彼らには頭脳明晰な雰囲気があった。こんなにも将来が有望に見える若者達が、一体どうしてこの髭モジャのオジサンを“尊師”として崇めているのだろう。その怪には子供ながらに怯えた。この世の中、「私は騙されないから大丈夫」といった慢心と油断が決して通用しないことを知り、信者に自己責任を問うばかりでは何の解決にもならない事をこの感想文にも暗示したということだろう。
 中学生の時分には選挙パフォーマンスで盛り上がっていたハチ公前広場だが、大学生の時分になると此処に提灯が飾られることとなる。金王八幡宮の例祭にしてはちょっと季節外れだなあと首を傾げつつ見上げると、指名手配犯の顔写真が提灯1つひとつにプリントされ、吊り下げられていたのであった。もしかしたら、この中に、あの日私に優しく接してくれた若者がいるかもしれないと思うと、あの日の「お兄さん・お姉さん達」と同じ年頃となった私は再び戦慄した。宗教もまた、是、中毒である。
 
 ギリシア神話に纏わる感想文から約10年後――入社3~4年目の頃の私は、仕事中毒のようであると共に、アルコール中毒のようでもあった・・・つづく

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