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【日本史】小野くんは オレと違って イモじゃない

 サラリーマンに向いていないと大学の先生にまで見抜かれてしまっていた私だったが、28歳から三十而立までの三年間だけ、会社へ行くのが楽しくて仕方がないという時期があった。週末も、若手で野球観戦へ出かけたり、労働組合主催のバーベキューや芋掘りといったイベントへ参加したり、先輩が山歩きへ誘ってくれたり、会社の人と過ごす機会が折々あったのだが、何も予定の無い土日を迎えると、何となく月曜日の到来が待ち遠しくなってしまう程、会社へ行くのが楽しくて仕方なかった。今となっては半ば信じられないが、何ら違和感なく「出勤すれば仲間が傍にいるから退屈する隙も無い」といった感じで前向きに捉えていたのだ。
 長い会社人生の中でたかが3年、されど3年。1つの所属組織に通う日常に対し、3年も続けて強い意欲を維持した経験は、後にも先にも「中学校の三年間」と「この30歳までの三年間」の二度だけである。中学生には高校進学という明快な目標もあるし、青春の日々が充実する蓋然性は高いと云えよう。しかし、身の回りの物事に心を躍らせる場面も少なくなった大人になってから、しかも根本的にサラリーマンに向いていないはずだったこの私が、まさか職場で拘束される労働時間に陶酔することになろうとは――。不惑と知命の狭間の歳となった今、冷静に振り返ってみると、この三年間は奇跡的だったのだ。
 無論、帰宅すればホッとするし、家に居るときが一番落ち着くのだが、かといって、会社へ行くのが煩わしいといった感覚に襲われることも無く、朝も雑務1つこなすだけで、気が付けばその日のエンジンが起動している。周囲と円滑にコミュニケーションを図りながら仕事に取り組んでいる自分の姿を確かめつつ、苦しかった地方営業が報われて本社の新しい部署へ馴染もうとしている現況に自己陶酔しているような感覚があった。指導が厳しい上司だったので辛い時は辛いのだが、私への期待も尋常でない上司だったので、いつまでも仕事に思い悩むようなことが無かった。
 但し、カッコイイ理由ばかりではない。当時の精神的高揚には独身寮がボロボロだったという要因も介在していたことは否めない。窓に嵌め込むタイプのクーラーしかない四畳半。和式しかない共同便所。火気厳禁の木造建屋ではカップ麺を食すことすら出来なかった。その点、どんな任務が待ち構えていようと、会社の事務所へ到着すれば、全てが整っている。四季を通じてエアコンは効いているし、トイレには温水洗浄便座が付いているし、クリック1つで昼の弁当も注文できる。不便な生活環境が却って労働意欲を掻き立てる。
 私は「仕事以上にイヤな時空」というやつは皮肉にも働く原動力へと転じやすいものだと認識した。それと同時に「家の外にしかない時空」というやつもまた働く原動力へと転じやすいものだと認識していた。きっと世の中の多くのサラリーマンにとってブルーな月曜日が慢性化している状態も、ちょっとした発想の転換で打破できるのかもしれない。これは決して綺麗事の楽観論などではなく、申さば「学校が楽しくなる瞬間」に何処となく似ている。もちろん授業がつまらなかったり、テストにやる気が出なかったりする。学校という時空はハッキリ言って無条件に楽しめるものではない。でも、昼休みに体育館でドッジボールをやるとか、たまには図書館で下らない本を探してみるとか、中高生にはクラスメイトと一緒にバカをやる風土がある。家へ帰ってしまうと、体育館も図書館も無ければ、中学時代に憧れた春子さんの朗らかな微笑みも、高校時代に憧れた千春さんの物憂げな微笑みも無い。こうした感覚はおそらく誰しも必ず備えていて、人はこの感覚を刺激されると、「組織の中に収まって動く」という行為を何やら心地良く受け止めてしまう生き物なのだろうと思う。従って、会社の中に潜在している“学校的な要素”を無理矢理にでも見出し、中高生の頃には普通に抱いていた感覚をサラリーマン生活へ応用すれば、たとえ針1本の直径であっても、凝り固まった日常に風穴が開くかもしれないのだ。
 
 尤も、ボロボロの独身寮にしたって、月の家賃が、毎日立ち寄っていた角打ちの呑み代2回分といったレベルの激安だった故、会社への文句は皆無だった。寧ろ、老朽化したこの寮に放り込まれたことが、金を貯めるには好都合だった。四畳半には暖房が無かったから、冬にもなれば、この狭い部屋によくもまあこんなに衣服があったものだと感心するほど重ね着をして、最後に布団を被る。十二単のような恰好になりながら、室内だというのに白い息を吐き続ける。だが、布団から出られないくらいで丁度良かったのだ。一歩外へ出れば無駄遣いをしてしまう。入社2年目で東京に母が住み続けるためのマンションを購入したが、若いうちは収入もさほど高くない。それでも暮らしは何とかなるものだ。ローンには黙っていても利息が付いてしまうから、まず目いっぱい返済のほうを優先する。手元に残った月給を31日で割れば、それが1日分の生活費の目安だ。さらに3で割れば1回分の食費の目安だ。着るものは有るものを着る。酒は不思議と誰かから貰える。家計簿なんか付けなくても、財布の中身を見れば向こう1ヶ月の生活イメージが湧く。贅沢と倹約のメリハリが利いた計画に沿って行動する毎日が貧乏を楽しくする。仕事をやり遂げた後に飲む酒の味は格別だから、そのご褒美をお目当てに、いっそう会社へ行くのが楽しみになる。・・・当時の私は、女性にモテないということさえ除けば、人生のあらゆることが好循環だったように追憶する。
 女性にモテなくても、私と同じくらい女性にモテない先輩の愚痴を聞けば、なぜか元気になれたものだった。独身寮への引越荷物に電池を抜かないまま目覚まし時計を入れてしまったあの先輩である。あの日も段ボール箱の中でベルが止まらなかったが、この日も四畳半の中で愚痴が止まらない。「オトコは3K。顔がええか、金持ちか、権力があるか。これから仕事を頑張れば、金持ちにはなれるかもしれへんし、権力も握れるかもしれへん。せやけどなあ、やっぱり顔には勝たれへんわ。せやけどなあ、顔だけはどうしようも出来ひんわ。『外見よりも、キミには心を見てほしい』やなんて美男子に言われたら瞬殺やで。その時点で『心』なんて蚊帳の外や。『心』もKやねんけどなあ。ナンボKを増やしたかて、差し詰めオトコは顔やで。」・・・今も「家事の分担」やら「子育てへの協力」やら、男の結婚条件となるKは増え続けているものの、不細工が初めから弾かれる法則だけは普遍的だ。
 そんな毒性のある“ベル先輩”と何名かの同僚で、琵琶湖へとドライブに出かける。ポカポカ陽気の連休の最終日、高速道路のサービスエリアにて、長時間運転に疲弊した旦那のことなんかそっちのけでショッピングに興じる祖母・母・娘のオンナ三代の会話が喧しい。そんな光景、謂わば「私とは無縁の幸せ」を遠目で眺めていると、顔を武器にキレイな奥さんをゲットしたかつての美男子もピークを越えればこんなものかと、人生の損得が一概には算出し難い事実に安堵したものだった。・・・私たちは名神を彦根インターで降りると、下道で反時計回りに日本一の湖を周った。
 
 「海みたいに広うて、ええなあ。昔の人は『鳰の海』てえ言わはったくらいやからなあ。風が気持ちええ。そういや、この辺、小野妹子の実家やったんとちゃう?ここでも舟に乗って中国へ渡る練習してはったんやろか。せやけど、たった1400年前やで。100歳まで生きた人を単純に14人重ねただけで、遣隋使まで遡ってまうんや。そないに目ん玉飛び出るほど大昔の話でもないやろ。」・・・転勤して1年。互いに同じ寮から同じビルへ通っていたが、本社も海みたいに広い。部署が変われば会社が違うかのように、守備範囲が多岐に亘っていた。たまたま運良く赴任先に親しめた私とは異なり、組織の中枢が持つ独特の雰囲気や、偉い役員が多い中での業務の進め方にやや戸惑い気味だったベル先輩が、ぼんやりと凪の浜辺に目を遣りながら呟き始める。
 「あかん。スランプや。せやけどなあ、オレは自分にも他人にも甘い人間で在りたい。壁にぶつかってもやな、その壁の高さを測って、乗り越えられそうにない壁やったら、背伸びはせえへん。上司は四六時中『失敗を恐れずにチャレンジせえ』って言わはるけど、やっぱりそれは胡散臭いと思うんや。そら、全部のレースが下馬評通りの結果になるギャンブルなんて味気ないけどな、根拠も無く頑張る生き方は周囲を裏切るだけやで。それが判っとるさかい、不可能だと判断したら壁を越えなくても済む方法を考える。正解なんて分からへんねんから、スランプの時ほど冷静になるくらいしか、天才でも何でもないオレには出来ひんわ。凡人が失敗すると傷付くで。いや、心の傷ならええがな。経歴に傷が付くゆうこっちゃ。そら、チャレンジするんが理想やで。せやけど、現実に引き寄せることのできる理想なのかどうか、その辺を見定めてな、なるべく失敗を回避するに越した事あらへんやないか。そら、上辺だけでも『過去の経歴で差別されることが無い社会』とやらになっとるで。ホンマはな、他人の失敗を許す環境を整えておかへんと、自分の失敗も許されなくなってまうから、皆それが怖くて他人を許しとるだけのことやねんけど、それでええねん。人間はなあ、他人にも自分にも厳しくしたところでなあ、所詮そないに成長せえへんことが証明されとんのやから、他人にも自分にも甘くしとったら、人生万事それで済んでまう。
 せやけどなあ、世の中には『他人にも自分にも厳しい人』っちゅうのがおるんやな。そら、選手の気ィが緩んどる時やら、チームが弛んどる時やら、大事な勝負の場を引き締める存在って有難いねんで。やけど、それも度を越すとなあ、実はごっつう厄介な存在でもあったりするやんか。自分の失敗にも厳しければ、他人の失敗に対しても厳しゅう原因究明をしたがる。そうやって失敗を許されへん性格の人が、いつの間にか『失敗を恐れないチャレンジ』の芽まで摘んでまうやろ。ほんでな、実はこういう人に限って『失敗を恐れずにチャレンジせえ』って豪語するもんやさかい、やっぱりそれは胡散臭いと思うんや。
 そら、小野妹子かて『ヤバい』思うたんとちゃう?上司の手紙を渡してみたら『日出ズル処ノ天子』てえ書いとって、目の前で煬帝みたいな鬼の得意先が途端に不愉快になったはんねんで。ほんで、煬帝の返書を『百済人に奪われましてん』って、泣きっ面に蜂で帰社すんねんで。ほんでも、上司は許してくれはったどころか、もう一度、今度は留学生やら学僧やら引き連れて中国へ出張する命令を下さはった。それはなあ、小野妹子が天才やったからやで。失敗を許される程の才能に恵まれた奴はチャレンジしたらええ。けどな、凡人のチャレンジは往々にして蛮勇になる。オレ達はなあ、失敗を恐れながらチャレンジするフリをするくらいで丁度ええねん。」・・・まるでベル先輩の心模様を映しているかのように、漠然として淡き夕陽が淡海から「日没スル処ノ天子」に向かって消えゆく。此処は瀬田ではないけれど、私たちが望んでいたのは、近江八景に肩を並べるような夕照であった。
 
 「オマエの考え方、琵琶湖みたいに澄み切っとるわ。会社ん中にある“学校みたいなもん”を無理矢理見っけて楽しんでまうって、ええなあ。学校に良い思い出のある奴は、会社を『学校みたいや』って思うて楽しむ。学校がおもんなかった奴も、会社を『学校よかマシや』って思うて楽しんだらええ。どっちに転がっても、損は無い。」・・・だが、こうした思考回路を携えていられるのも、或る程度は多忙の中に余裕を見出せる時においてのことである。ベル先輩のように激務に苛まれ、難題から抜け出せない時、回路は断線しがちなのだ。私はどうしても会社へ行くのが苦痛で堪らない時ほど、いったん深呼吸して、会社が楽しかったあの頃の思考回路を思い出すようにし、自らを精神的な過労へと追い込むようなことのないように注意を払っている。
 「ええか、100歳の人間を14人並べたら小野妹子なんやで。100年後には消えてまうような仕事に振り回されるより、会社とか組合とかを人間の学校って捉えて、楽しんでまう。たとえ心から楽しめんでも、楽しむフリを楽しんでまう。オマエの云う通り、そないな遊び心を忘れないどったほうがええなあ。会社の100年後より、自分の10年後。小野妹子かて、1400年後の日本のことなんて、失礼かも分からへんけど、どうでもよかったかもしれへんで。『やった~、中国へ旅に行けるう~。事情によっちゃ日本に戻らんくてええかも。』くらいの感覚だったんとちゃう?知らんけど。」・・・その後、ベル先輩は、出世こそしなかったが、結婚して子供を二人授かり、自分の力で現実に引き寄せることのできる理想を手に入れた。私の祝福が琵琶湖をも凌駕する大きさだったことは言うまでもない。なんせ「自分にも他人にも甘い人間で在りたい」という価値観を共にした仲間だったのだから・・・つづく

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