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目標達成の為に、自信を持って「補助輪」を付ける事

43歳からホルンを始めて、たった1年2ヶ月でヨーロッパのナショナルオペラハウスのホルン奏者に就任できた僕の

「リアルに夢を叶える為の思考学」の第17回目です。

さて、今回は「目標達成の為に、自信を持って「補助輪」を付ける事」について書いておきたいと思います。

最初の内容は、ある意味先回とは「間逆」の内容の話になっていて

「急がば回れ」⇔「膳は急げ」のような感じで、

「どちらも、それぞれに大切な要素を含んでいる」

という「間逆の真理」のお話からです。

まず最初におおまかな「結論」を書いておきますが、

大多数の人が出来るからといって、自分や貴方もできるとは限らない。
という事も、理解しておくのは「大切」だ

というような内容のお話です。では興味がある方は読み進めてみて下ませ

「つい、勘違いしてしまう事」

人にはそれぞれに様々な「能力」というのが備わっていますが、自分も含めて「つい、勘違いしてしまう事」というのがあって、それは

「自分が簡単に出来る事」を「他の人も簡単に出来るはず」と「思いがち」

ということです。

「常識」というのも、ある種同じ部類の類なのではないかとも思われます。

この逆の「自分は(簡単に)出来るけど、他の人は簡単に出来ないかもしれない」という思いを「どこのレベルまで広げて、他の人と接せれるか」が、その人の「人としての許容度」なのではないかとも思いますし、

更にその「許容度」が広がれば広がるほど本人の「いらつき」や「怒り」が消えていくでしょう。

大抵の場合、人が「いらつく瞬間」というのは、そこに「こうあるべきだ」という「自分の中での当たり前の常識」や「こうしてほしい」という「何かの期待」と、その「期待への裏切り」があるからでしょうから。

そこにもし、

「そもそも人はそれぞれ共有している価値観や常識に違いがある」

という事への「抜本的な理解」が入れば、「いらつき・怒り」は減ります。

「なんで出来ないの!」の答えは「自分ではなく、別人だから」ですから


大人が「補助輪」を付けて自転車に乗って走っていても、それは決して恥ずかしい事ではない

既に別の回で自分の事を「イーブンで知る」大切さについて書きましたが、その「思い」を「外側に向けた理解」というのが

「人それぞれ「能力」や「条件」は違っていてそれぞれです」

という事になるのだと思います。

例えば「大人が「補助輪」を付けて自転車に乗って走っている」という行動を遭遇したとしても、その方はもしかしたら何かの「リハビリ」中かもしれないし、生まれて始めて自転車に乗ろうとしている所かもしれません。

仮に、それが自分だったとした場合、その「行為や決断」に明確な「意味」や「理由」があるのなら尚更、それは決して恥ずかしい事ではなく、誰に馬鹿にされようが、否定されようが、気にせずその「補助輪」の意味の先にある「目標・目的」だけを考え見つめて、集中して全うすればいいだけです。

表面的な情報と「自分の価値観」だけから出た「他者への批判」は、えてして時と場所を変え違った形で「同じ類の批判」となってブーメランとして自分自身に返ってくることもありますし(※そこで気がつく人と、そこでも気がつかない人もいらっしゃいます)、その延長で「自分の首を絞める」ことになる事も多いということを、体験する前に少し理解しておくことは大切かもしれません、

自戒の意味も込めて。

日本における「他者批判」の多さについて

日本における「他者批判」の多さは、もちろん様々な理由が考えられますが、その「他者批判」の前の段階の、自分の行動や言動の「決断」に大きく影響している「他者との比較の思考」は、学校教育が大きく影響しているようにも思えます。

※1997年から海外生活中で、日本の内部情報が「昭和と平成初期」で止まっている事が多くあります。「今は違うよ」というような内容のものがあるかもしれませんが、その点をご理解いただいて「必要ない情報」として飛ばして読んで頂ければと思います。

日本の学校教育を受けると学級や学年での「成績の順番」を評価の対称にしている時点で「自己成長」とはかけ離れている「他者との比較と勝負」の思考の方が、圧倒的に「自分と向き合い、自分と勝負」する思考の育みより大きいように思われます。

しかも、自分自身の評価自体を「誰かに評価してもらうのが前提」という「他人に依存する思考」を育てる事になっているように思います。

この結果、いつも「他者からどう見られているか?どう思われているか?」ばかりが気になり、あらゆる選択も「その他者の評価に添う形」に決めていき、選択後も「この選択をどう思われているか?間違ってないか?」と、つねに他者からの「評価と目線」だけが気になり、そんな「不安との共存」の人生を歩むことになるのでしょう。

「他人は他人」「自分は自分」

あらゆる自分自身の評価も「自分自身が決める」という事ができる人が、本当の意味で「自立している人」なのではないかと思っています。

これも別の回で書いた「自分自身があらゆる物の縮図の最小単位」ということにもリンクしているようにも思えます。

僕の「目標達成」の要になった「補助輪」について

まず、あえて「他者と比べる事」で僕自身を「相対評価」すると、

僕は、別に全然上手な「トランペット奏者」でも「ホルン奏者」でもありません。

僕より上手にトランペットやホルンを吹く方は、日本を含めて世界中にはプロはもちろんの事アマチュアの方でも五万といらっしゃると思います。

※かといってもちろん下手じゃないですし、人より秀でている部分も沢山ありますが楽器演奏家として「基礎もしっかりバランスよく仕上がっているプレーヤーであり音楽家である」という視点や評価基準から見て「秀でている所より、劣っている所が断然多い」という意味です。(了)

ですが、僕は「トランペットやホルンが別に特別に上手くない」というのは「ただの条件」だと思っていて、その条件をベースに試行錯誤してオーケストラのため・全体の音楽の為に良い仕事をする事の出来る「トランペット奏者」や「ホルン奏者」であるとは思っています。

人はよく、オーソドックスでなく「奇をてらうような事」をしている方に、「邪道だ」などと評して「王道でない事・人」を否定する方も多いのではないでしょうか?

僕はその「奇をてらうような事」を手綱にしたことによって「目標を叶えて行けた人物」であると思っているので、「奇をてらうような事」言い換えれば「補助輪」に頼ってのし上がる事に対して「別に悪い事ではない」と思っています。

ライバルのバレエダンサーのトウジューズの中に画鋲を入れたりするような「卑劣なまね」でないのであれば。

「鳴かず飛ばず」の日々が何年もつづく

僕はドイツに留学しても数年全く上達しませんでした、これにはさまざまな理由がありますが、それと同じく後にさまざまな理由がプラスに重なって、誰からも全く見向きもされていなかった僕が、トランペットで一気に演奏での活躍の場が増えたのは

「高い音を確実に当てられるようになった」

という事が大きな理由だと思われます。

「彼なら必ず当ててくれる」という評価の獲得です。

特にトランペットとホルンは、セミプロぐらいのレベルまでは「どう音楽的か?」よりも先に「書いてある音が確実に出せるかどうか」という点で活躍のチャンスが大きく変わってきます。「まずは、そこをクリアしないと」という大きな壁なのです。

「高い音が確実に当てられるようになった」理由は、別に基本的に楽器が上手くなったのではなく、単純に音をはずさないで吹けるメカニックを楽器に沢山つけたからです。

夢の「ハイBbキー」ならびにその他計5つです。

今はホルンに専念していて、かれこれもう1年以上はトランペットを全く吹いていないので、今吹いたらどれくらい確実に「ハイBb」を当てられる「パーセンテージ」かは未知数ですが、現役の頃は、おそらく「100%」に限りなく近い「99%」の確立でハイBbがいつ何時でも当てられていたと思います。

このメカニックを使わないと、60~70%位でしか当たらなかったのではないでしょうか。いや、もっと低いかな。

これを「邪道だ」という人も多いですが、その「邪道」だという方は「プロオケの首席奏者」になられた経験がおありなのだろうか?

仮に「プロオケ」の方が「邪道だ」とおっしゃっているとすれば、その方は「自分は上手に吹けるという条件」に到達されている方ですから、その「上手」な方の「条件」を「凡人」方々や、僕のような「凡人以下」のチャンレンジャーが真に受けて同じ道を正面から猛進しても、恐らく現実的には

その上手なプロオケの方と同じ世界の土俵には、立てる事はないでしょう。

現実の世界では、若くて元気な「天才かつ努力家」の方々がどんどん現れて、真っ向勝負を選んで地道に努力している努力の成長よりも、比べ物にならない位早いフェラーリに乗ったようなスピード感で、どんどん追い越されて

僕自身が正面から真っ向勝負して未到達だったように、恐らく期限や条件付きの「目標」には、到達できないと思われます。

「正攻法か否か・オーソドックスか否か」ではなく「演奏の依頼、演奏会での僕への信頼があがる方」に重点をおいて、あらゆる選択肢を選ぶ

要は「方法」ではなく「結果」と「美しい音楽」の方に「重きを置いている」という事で 僕自身は自信を持ってメカニックを使用していますし、僕と同じように練習を繰り返しても高い音が満足に当てられない方へは、本当におススメです。

音が自由に当てられれば、やっと「音楽が出来る」ようになりますから。

※このメカニックは「既にその高さに辺りの音域は出るのだけど違う音がでちゃう」という方向けのメカニックで、その高い音域が出ない人は、そのメカニックを使ったら「高い音が出る」というシステムではないので、また別の条件になりますので、違うアプローチが必要で、そんな方でハイBbの下の「F」まで自然に出せるのなら「ホルン」を一度試しに吹いてみる事をおススメいたします。この音は「オーソドックスにホルンで必要な最高音」ですから。

誰よりも練習してきた「練習の鬼」の僕が断言します

もちろん、上手な方は僕の使う「メカニック」など使わなくても上手に吹ける方々が沢山いらっしゃいますし、むしろそちらの方々の方が大多数です。ですが、誰よりも練習してきた「練習の鬼」の僕が断言しますが、練習だけで克服するのは「時間のロス」が大きいですし、まず当てて過ごしながら個人的に徐々に改善をして行けば良いだけです。

たとえるなら、四国から東京に行くのに、歩いていくようなもので、それ自体が目的や時間的な制限がない場合は良いでしょうが、急いでいる場合や期限がある場合などは「飛行機で飛んでいく、夜行バスで行く」などをした方が、圧倒的に時間のロスがなくなります。

ですから「一生かけて最終的に良い演奏家になる事を目的」としている場合は正攻法でずっと続けていても良いでしょうが「オーケストラに就職する」というのは「なんだかんだいって」現実的には「時間との勝負」な面も強く、「もたもた成長を気長に待っている」場合ではないという点があります。

何度も書きますが、貴方が思っている以上に貴方より「若くて天才かつ努力家」が続々と現れてくるのですから。

楽器だけにとは限らず、あらゆるジャンルも同じだと思うのですが、練習量でのスピード感のある成長を見せてくれるのは「初期段階」だけで、ある程度の成長を遂げてしまうと、木々の生長のように平行線からの微妙な成長スピードへと移っていきます。

本当に「目標」を達成したいなら、そのスピードでの「成長具合」と、自分の「目標」の「達成期限」とをきちんと見比べて、物事を判断しなければいけません。

そこで大切な選択肢の一つとして存在感を増すのが、今回の題目の「目標の為に自信を持って「「補助輪」を付ける事を選ぶ」という事です。

最後にまとめとして、内容が何度も重複しますが大切なので

本気で「目標を達成させたい」のなら方法はただ1つ

本気で「目標達成の為に」という言葉が成り立つ事を、選択肢が分かれたなら「より確実な」そして「より早く」の事柄を「選択」して「実行」するだけなのです。

そして、それが「期限」や「年齢の壁」があるものなら尚更に

「周りの目」や「人から何を言われる」などを気にしている場合ではありませんよ。

舞の海関は相撲取りになりたくても、採用基準の身長に足りていなかったから、手術して一時的に頭にシリコンをつめたのです、その「選択」は

「目標達成」を思う「本気の現われ」なのです。

そうなのです、ここでも僕の座右の銘の「なんだかんだいって」がでてきます

あなたの選ぶ「選択」は「なんだかんだいって」あなたの「目標達成」への

「本気度」が自然と現れるのです。


ということで、今回はとりあえず以上でした。

では、

「千里の道も一歩から」小さな一歩が、結局確かな一歩!!

ということで、最後まで読んでいただいて、ありがとうございました!!

皆さんの「夢や目標」がリアルに叶いますように!!

堀江努


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