日記 12/18〜12/20

12月18日(土)

ここ2日ほど日記を書く気力がなくて、それはきっと睡眠不足のせいだった。一昨日、昨日と高校でのWSアシスタントの仕事で朝は5時50分起き、というわけで前日11時半にはベッドに入るのだけど、普段夜型の生活をしているというのもあって、日付が変わるまでに眠りに入ることがなかなか難しく、もし入眠出来たとしても身体が仮眠と勘違いするのか2,30分で起きてしまうということを2日繰り返し、夜は夜で昨日は自分が受講する側のWS、一昨日はその準備をしていたから、「ストーナー」もあまり読み進めることが出来ず、音楽もクリスチャン・スコットの「Stretch Music」を聴いただけだった(ただ夜明け前の住宅街、あるいは朝焼けの中を歩きながら聴くクリスチャン・スコットのトランペットはとてもとても良かった)。
そして今日、やっと7時間眠れて、本当は8時間とか9時間とか寝たかったけど、7時間というそこそこ思慮深い睡眠時間にとどまったのは9時半からガレキの太鼓のzoom会議があったからだった。会議後は読まなければいけない台本の一つを読み(この1週間で仕事になるものもWS用のものもひっくるめて計4本の台本が送られてきていた。ありがたいことです)、そしてご飯を食べてから「読書の日記」を読み進めた。阿久津さんは2ヶ月かけて読んできた「富士日記」を読み終わっていて、そして僕は「読書の日記」をあと少しで読み終わろうとしていた。この頃には「読書の日記」の出版が決まっていたらしいから作為も少しはあるかもしれない、いや本当に偶然なのかもしれないしきっとそうなんだと思うけど、このパラレルというか相似形には心地の良いものを感じた。それから僕はハービー・ハンコック「Speak Like A Child」のA面を聴いた。
DUGでの仕事はとても忙しくて、年末の週末!という感じで、とても疲れてしまった。そこに帰りの電車で読んだ「ストーナー」が追い討ちをかけてきて、「ストーナー」はかなり面白いんだけど読んでいてお腹をグリグリと拳で圧迫されるような痛みがあって、それは話が先に進めば進むほどに強くなっていった。だから西川口駅に着いた時の僕はなんだか気持ちが沈んでしまっていて、それでも何か音楽を聴きたかったから、ポーティスヘッドを久々に聴いた。今はポーティスヘッドだろうとなぜか思って、それは的中していたんだと思う、特定のアルバムではなくspotifyのアーティストページに出る「人気の楽曲」みたいなやつを上から再生していって、Glory Box,Roads,Sour Times,The Ripを聴いた。良かった。ポーティスヘッドを聴いていると、気持ちの落ち込みが溶け出していって甘美なものに変容していく気がした。10年ぐらい前、レディオヘッドに影響を与えたグループということで知って一時期やたらと聴いていたけど、今聴いても好きだった。暗くて暗くて甘い音楽だった。
家に帰ったのが1時ごろ、アボカド丼を食べて、お風呂にも入らず読書もせず寝ることになるだろう。


12月19日(日)

11時に起きて、しばらくウダウダした後にハービー・ハンコック「Speak Like A Child」の残りを聴いてから、 DUGへと向かった。徒歩移動中に聴く音楽は何となくアヴィシャイ・コーエンの「Continuo」を選んだのだけどこれがべらぼうにかっこよく、その音楽はどうやらジャズとイスラエル音楽の融合ということみたいなのだけど、とにかくメロディにしろリズムにしろエッジが効いていてたまらなかった、歩きながらかなり興奮した。DUGで日曜日には一緒に働いているりょうすけさんに「アヴィシャイ・コーエンのアルバムだと何が良いとかあります?」と聞いたら、「アヴィシャイ・コーエンは何でもかっこいいよ」とのことだったので、色々と聴いてみようと思った。DUGでの労働は15時に出勤してからの2時間くらいは猛烈にバタついていたのだけど、夜になるにつれてそれは落ち着き、21時頃にはほとんど凪のような状態になった。日曜の夜だなという感じだった。僕は少し前から練習してみたいと思っていたマンハッタンを作ってみて、それはウィスキーとスウィートベルモットで作るカクテルなのだけど、まぁそこそこの味のものは作れたみたいで、ただ滅茶苦茶に美味しいものが出来たかと言われるとそうじゃないと思った。カクテルはほんの少しのお酒の分量の違いで味が変わってくる、難しいしだからこの道を極めようという人がいるんだななんて考えた。
家に帰ったらあまりにも部屋が寒くて、この冬初めての暖房をつけた。耐えられなかった。


12月20日(月)

今日は11時の少し前に起きて、それから有楽町に映画を観に向かった。ヒューマントラストシネマ有楽町でジョン・コルトレーンのドキュメンタリー「チェイシング・トレーン」を観た。映画自体が傑作とは思わないけれど、ジョン・コルトレーンに興味のある僕は終始楽しく観ることが出来て、映画の終盤で日本の話が中心になったのはびっくりしたし、それになんだろう、ジャズミュージシャンの写真ってなんでこんなにかっこいいんだろうと思わされてしまった。そして最も心奪われたのはコルトレーンも参加していたマイルス・デイヴィス・クインテットによる「So What」の演奏映像で、あのクールネスは一体何なんだ、コルトレーンがソロを取るその背後に自身のソロを終えリラックスした様子のマイルスが佇んでいる絵のかっこよさたるや、僕は本当に痺れてしまった。それから渋谷や吉祥寺でもやっているこの映画を有楽町で観たことで付いてきたささやかなオマケもあって、コルトレーンの代表曲の一つ「Naima」が流れた時、僕は同じくこの曲が流れる映画「イーダ」を同じ映画館の同じスクリーンで、何だったらほぼ同じ座席位置で観たことを思い出した。「イーダ」を僕は公開当時には観ておらず、同じ監督(その名前をパヴェウ・パヴリコフスキというのだけど僕は当分覚えられそうにない)の最新作「COLD WAR」が2018年に公開された際、1週間限定か何かでリバイバルされたのを観に行って、これまた痺れるような感動を味わったのを僕は覚えていた。厳格な修道院で育った少女イーダが外の世界に踏み出し、そしてそこで出会う音楽がジャズでありコルトレーンの「Naima」だった。
映画を観終わった後は吉野家で牛丼を食べた後(最近牛丼を食べすぎじゃないかという反省とともに)、有楽町のスターバックスで「ストーナー」を開いて、そして読み切った。最後の方はどんどん読んで、中盤過ぎたあたりは読むのが辛かったりもしたのだけど、最終的に作者はウィリアム・ストーナーを祝福していて、いや確信を持って言えるわけではないけどでもちゃんと祝福してくれているような気がして、だから僕はとても大きな満足感とともに最後のページを読み終わった。そんなに長い小説でもないのに、人生がまるごと入っていたそんな気がした。
16時半から池袋で来年の演劇に関する打ち合わせ(のようなもの)をして、それから帰ってきてお風呂に入ってからキムチチャーハンを作って食べた。そして「読書の日記」を読み始めたら10分ほどで終わってしまった。その終わりは唐突に来た。もちろん日付的にも残りのページ数的にももうすぐ終わるってことは分かっていたのだけど、ほとんど終わるそぶりも見せないままに唐突にパチンと終わったので、「あ」という感じがした。それから寂しさがやってきた。

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