日記 3/1〜3/5

3月1日(火)

3月になった。もちろんやることは変わらず「ゴドーは待たれながら」を読んでいく。読む中で、生々しさみたいなものを今回演じるにあたって大事にしたいなと感じる。だけれど生々しさって一体何だろう。別に自然主義的な、現代口語的な演技でやりたいというわけではない。あくまで切実だったり切迫しているものを内側のエンジンとして、言葉や動きを抽出していく、そういうやり方でこの戯曲に立ち向かいたい。その上での生々しさとは……? 瞬間瞬間ちゃんと言葉を探していくこと、だろうか。そのために今ひたすら”読み”を続けているともいえるのか、なんて思うし、だとしたら何を今更ということを書いているわけだけど、でも改めて生々しさというのは一つの指針にしていってもいいのかもしれない、とそんなことを考えた。
あと今日は夕食前後にレオス・カラックスの「汚れた血」を観た。実はカラックスのいわゆる「アレックス三部作」、つまり「ボーイ・ミーツ・ガール」「汚れた血」「ポンヌフの恋人」のDVDボックスを持っている。母からもらった今のところ最後の誕生日プレゼントで、確か23歳か24歳の時だった。歳を取るにつれてカラックスへの関心というのはなくなってはいないけど、でも薄くはなってきていて、いや今でも好きなんだけど、でもあの頃の僕はカラックスに酔っていたから、それと比べるとという話になってしまう。今日久々に「汚れた血」を観て、「そりゃ若者はやられてしまうよ」と思った。開始1分経たない頃にそう思って、でも33歳の僕だって十分に魅了された。そのナイーブさとカッコの付け方はナイフみたいだった。その極地がやっぱりデヴィッド・ボウイの「モダン・ラヴ」がかかるシーンで、あの数十秒は本当に映画史に残ると思う。あと「そういやこれウィルスとワクチンの話でもあったなぁ」なんて感染症の大流行が収まる気配を見せない世の中では、そんなことも思ってしまうんだった。
今日「汚れた血」を観たのはほとんど何となく……DVDあるのが目について、たまたま時間もあったから……という感じだけど、実はここ数日「ホーリー・モーターズ」のことはちらちらと考えていた。また観たいなぁと思ったりもしていた。それは「ドライブ・マイ・カー」のことを考えている時に引っ張り出された思考で、それは両者ともが”演じる”ということに関して描いた映画であったからだった。カラックスの新作「アネット」は4月の頭に公開されるらしいから、それを観に行くまでに「ホーリー・モーターズ」も観たいな。しかし「アネット」は「ホーリー・モーターズ」以来だから9年ぶりのカラックス新作だ。楽しみ。
MJQの「Django」を聴いた日でもあった。MJQってのはモダン・ジャズ・カルテットの略なんだけど、以前DUGでMJQがマイケル・ジャクソン・カルテットだとしたら、みたいなことをお客さんと会話した覚えがある。こう書いてしまうと大して面白くもないくだらない話なんだけど、でもその時はとても楽しかったし、僕の頭の中にこういう会話の記憶ばっかり積み上げていけたら、それは幸せだろうなとも思う。


3月2日(水)

今日も「ゴドーを待たれながら」を読んだ。もはやそんなことはいちいち書かなくてもいいのかもしれない。ここからまだ一ヶ月半以上、「ゴドーを待たれながら」を読み続ける生活が続くはずだから。しかし今日読んだ箇所で、このゴドーという人物(?)を僕が演じるにあたってのやり口みたいなのが少し見えた気がした。やり口なんて書き方は小手先な雰囲気をかもしだしていてちょっと嫌なんだけど、だとしたら入り口みたいな言葉が近いだろうか。一つ要素を身体に入れてやる。それは決して大きなものではないけど、でも全体に響いてくるかも知れない、そういうもの。ただそれが有機的に機能するかどうかはまだ分からない。し、分からない状態で良い。材料を一つ獲得した、かもしれない、それぐらいで今は良い。その材料とは、鬱屈とか屈折とかそういうものだ。言いようのない不安や怒りを抱えながら、それを表出することを自分で自分に許可していない、そういう状態。もしかしたらそれが全体を貫く背骨の一つになりやしないだろうか。そう思った。いずれにせよ、この戯曲を演じるにあたって僕は絶対に楽をしてはいけないな。とにかく自分を苦しいところに置く、そうしないと歩いていけない。方向性はどうあれ、それはほぼ確実だろうと思っていたし、そこにこそ僕がこの戯曲を演じる意義みたいなものがあるだろうとも考えていた。
確定申告は今月半ばで期限だってことに気付いた日でもあった。勝手に今月末までだと思い込んでいた。少しだけ領収書の整理に手をつける。
今日聴いたのはチェット・ベイカー「Chet Baker Sings」。


3月3日(木)

「ゴドーは待たれながら」、今日読んだ箇所は、この作品でも数少ない会話部分だった。だが、これが今まででダントツで頭に入らない! 会話だからすぐ入るだろうと思っていたら、その会話の内容が混乱に混乱を呼ぶものだというのもあり、正直今日だけじゃ全然頭に入ってこなかった。あまりの頭に入らなさに、途中からもはや覚えようという意識を捨て去って、ひたすら読むことに集中していた。ここはセリフを録音して、それを聞くことによって覚えることにしよう、気長に構えよう、と思った。
今日は夜にガレキの太鼓のズームミーティングもした。Arts for the Future!2のことなどを話す。それから今週末にワークショップをやるから、そのことに関しても少しだけ。僕も何回か顔を出す予定。純粋に楽しみだ。
それから人生で初めて、自分で稽古場を取るなんてこともやった。一人芝居なんだから基本的には自宅でブツブツ言う稽古が中心になるけど、それを思いっきり試す時間、全力で演じることが出来る時間はやっぱり作ったほうがいいだろうということで、下北沢を中心に4時間半ずつ、計9日間稽古場をおさえた。1ヶ月半後には本番が終わっていると考えると、きっとあっという間なんだろうなと思う。悔いがないような公演にしたい。
今日はクリフォード・ブラウンの「Clifford Brown With Strings」を聴いた。それから南博「白鍵と黒鍵の間に」を読み切った。


3月4日(金)

今日は早稲田の演劇博物館に「ゴドーは待たれながら」の映像資料を観に行くつもりだった。9年前にナイロン100℃が上演した際の公演映像が演劇博物館にあるっていうのだ。演出はケラリーノ・サンドロヴィッチ、演じるのは大倉考二(敬省略)。きっと面白いのだろう、僕では絶対に敵わない部分だって頻出するだろう、そんな中観に行くかどうかは迷ったけど、でも真似出来るところはしてもいいんじゃないか、それに演じる人間が違えばどうしたって別物になるのだし、と思って観に行くことにした。早稲田に行くのはとても久しぶりで、ましてや構内に入るのなんて10年ぶりとかだろうか、それだけで少し高揚した。どらま館では早大劇研の後輩で、今や劇団献身の納葉ちゃんが学生向けにWSをやっているようだった(入り口に看板が出ていた)。劇研は劇研で公演をやっているようだった。もし何もやっていなかったらアトリエ(稽古場兼劇場)の様子というか雰囲気を外から見てみたかったけど、公演中というわけで引き返す。そういえば僕は劇研に所属していた頃、フラリとやってくるOBというものが嫌いだったなぁなんてことを思い出しながら。絶対に今劇研を訪れたら感慨深くなれるし、現役の子たちと話したりしたら気分良くなってしまうだろう、なんたって自分の青春時代そのものと言っても良い場所なんだから、だけれどもその安易な気持ちよさに浸ることを自分に許さないのが品性だなと今でも思う。
そして本題の「ゴドーは待たれながら」の映像資料なんだけど、これは結局観られなかった! 予約が必要だったのだ! ちゃんと演劇博物館のwebを見て「予約は必要ない」という文言もチェックしていたのだけど、それはあくまで展示のことで映像資料に関してはきっちり予約制となっていた。しかも今から予約を取ろうとすると2週間先とかになってしまう。もういいや……と思った。これは諦めってことではなくて、きっと観ない方が良いのかもしれない、なんていう風に考えを変えたってことだ。もし今後行き詰まることがあったら観に来るかもしれない。でも少なくともしばらくは、ナイロン版を少し参考にしてやろうなんて浅ましい根性は持たず、自分の信じる「ゴドーは待たれながら」を作ろうじゃないかって思いなおした。頑張ろう。
家に帰ってからは、一幕最後の部分のセリフを入れた。これでやっと半分か、なんて思っちゃうけど、あと半分セリフを入れるのに2週間かけていいのだから、無理な話ではないだろう。その後二幕のカット箇所の決定。今後変わる可能性もあるけど、当面はこの形でいく。その後大体の時間を計るために全体を読む。一幕42分、二幕37分、ここに休憩5分入れたとしたら85分。
歩きながらハンプトン・ホーズ「This is Hampton Hawes, Vol.2 : The Trio」とロバート・グラスパーの「Black Radio Ⅲ」を聴いた。それから急に小説が読みたくなってしまい、そんなことしている余裕あんまりないんだけど読みたくなってしまい、岸政彦の「リリアン」を図書館で借りてきて読み始めたら、これがとてもとても良い。前半1/3ぐらいで相当グッと来てしまった。岸政彦は今「東京の生活史」って本がかなり話題になっている社会学者だけど、そういう、人に出会いその人の話をじっと聞く、みたいな活動をずっとやってきた人だからこそ書ける小説なのかこれは、なんて思ったりもした。


3月5日(土)

ガレキの太鼓のWSだった。ガレキの太鼓はもともと劇団だったんだけど、今では劇団という形ではなく「オープン屋号」と銘打っていて、誰もが名乗って使える名前、というか屋号になっている。だからメンバーとかもいなくて、僕は人に説明する時よく「皆が集まれる場所みたいなものですかね」と言っているんだけど、僕は一昨年、そのガレキの太鼓のオープン屋号化に関わって、それ以来ガレキの太鼓の企画に参加し続けているし、今回のWSだってホスト側として振る舞っていた……けど決してメンバーではない、という、「何じゃそれ?」と言われたら「何なんでしょうねぇ」と答えるしかないふんわりとした感じなんだけど、でも決して所属しているわけではないという事実が、その言葉が大事だったりもする。ちなみにここ最近、僕の生活の大きな部分を占めている「ゴドーは待たれながら」は、ガレキの太鼓の名前を借りて公演することになっている。つまりオープン屋号だ。
WSのファシリテートは演出家である(館)そらみさんが行ってくれて、そらみさんの出す提案に皆で即興的に乗っかって遊ぶという、ここ最近のガレキの太鼓の創作方法をはじめましての人とやってみるという時間になった。そしたら思っていた以上に面白い瞬間が生まれて、この楽しさは本当に凄いと思う! 面白い瞬間を生み出すための実験室みたいな、そんなガレキの太鼓の稽古場は刺激的だ。稽古場って書いちゃったけど、今日のWSは教える/教えられるとか、与える/持ち帰るみたいなそういう類のものではなく、皆で一つの創作をして、そこから各々何か得たり出来たら良いねって感じのもので、それって考えてみたら普段の稽古場と変わらない。作品を生み出すために演出家と俳優がセッションする場のことを稽古場と呼ぶならば、今日WSが行われていたあの空間は間違いなく稽古場だったと僕は個人的には思った。
帰ってからは、「ゴドーは待たれながら」のセリフを確認してから、一幕を棒読みで読み、それを録音した。明日か明後日には二幕分も録って、これを移動中に聞くことを習慣にしようと思う。
今日の移動中はハンプトン・ホーズの「Vol.3 : The Trio」を聴いていた。
寝る前には「リリアン」を読み切ろうと思う。

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