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京王線殺傷事件の犯人は正常

自己紹介 

ほらっちょ姉さんと申します。社会心理学という学問を専攻しています。もともとは対人恐怖症の研究でしたが、いまは日本人の心と行動についての研究をしています。

問題設定

本題です。今回、過激なタイトルをつけたことには意味があります。それは、平成以降のある種の心の闇と呼ばれる、動機不明な理由の犯罪増加が、「何ら異常ではなく、正常である」ことを納得してほしい。「日本人の若い世代のコミュニケーション、その変化の背景と処方箋」を詳しく記述します。

ハロウィン京王線殺傷事件。私はこれら事件(秋葉原、小田急無差別など)の全てにコメントしてきました。繰り返してきたのは「ヤッたのがたまたまアンタじゃなかっただけで、アンタがやっていても不思議はなかった」ということ。社会が犯罪者をロシアン・ルーレットで選ぶのです。


私は社会心理学が専門ですが、社会学の問題設定は、心理学との違いで言うと分かりやすいでしょう。両者は帰属処理が違います。心理学は、現象がもたらす原因を心理メカニズムに帰属します。「心がこうなっているから●●くんはこういうことをした」という説明です。たとえ一度は社会背景が探られることがあっても、「なぜコノ人がそうなったか」を説明するのですね。これに対し、社会学は、現象がもたらす原因を社会メカニズムに帰属します。心理学と同様に、いったんは個別の心理に帰属することはあっても、「そうした心理メカニズムが働くのは社会がこうなっているからだ」という風に、最終的には社会を問題にします。一例をあげましょう。

日本人は対人恐怖・視線恐怖症という神経症が圧倒的に多いと言われます。たとえば、対人恐怖症を多くの一般人は「特殊」とみなしますが、私は「一部だけれど、特殊じゃない」と論じました。たとえ一部でも日本人の一定数、そして、特定の地域で特定の病が頻発するのは、共通の社会的前提の上で、一部が「引き金を引かれる」だけという趣旨です。

この一部に関わる「引き金」要因の一つとして本人の性格的要因が作用する場合もありますが、それ(心理面)に注目しすぎると、日本人であれば誰でも対人恐怖・視線恐怖症になり得る事実や、日本人の多くは対人恐怖症的心情を持ち合わせているという事実、それを支えるマクロな社会的要因が存在する事実が、忘れられます。

京王線無差別殺傷未遂事件の犯人に対して「犯人の心や行動を問題」にしている人が大半ですが、ナンセンスです。それは現状のシステムを前提とする限りで「こうだ」という提言が理に適っていたとしても、そもそも現状のシステム(制度や文化)を維持するべきかどうかに疑問を呈しないと「イタチごっこ」だからです。

例えば、家族や学校の中に居場所が見つからない人に、なぜそうなるのか、どうすれば見つかるかを心理学者は語ります。でも社会心理学者から言えば、家族や学校の中に居場所を見つけなければならない理由はないし、そもそも家族や学校生活を営むべきなのかどうかさえ疑わしいのです。 

同じく、精神医学(心理学の一部)は最近“病気(神経症や精神病)ではないが変な人”を「人格障害」と呼び、治療対象とするようになりました。しかし社会学的視点では、治療対象が人の心なのか社会の在り方なのかは、自明ではないと考えます。

処方箋も対照的です。心理学者は、問題を改善すべく、薬やカウンセリングで「症状」を改善します。でも社会学者や社会心理学者は、「心や行動」の背景にある「社会の在り方」という問題をみます。

社会学や社会心理学の立場では「人格障害」は郊外化・都市化現象への合理的適応です。「人格障害」はむしろ正常の証明です。「だれでもよかった」系の動機不明殺人も同じです。これらを治療対象とすることで、合理的適応としての「人格障害」や「だれでもよかった」系を生み出すような社会そのものの治療が、埒外に置かれる可能性を社会心理学者は危惧します。


今回「社会の現状」として取り出すものは三つあります。平成以降の「誰でもよかった」系の動機不明な犯罪激増、「メンヘラ化」する若者の激増、関係性が希薄な若者の激増、という三つの問題、そして、それらが正常であることと、日本人社会の変化についてお話ししたいと思います。


1、動機不明な犯罪激増 

「だれでもよかった」系の動機不明犯罪激増から申します。犯罪が激増したというのは誤りで、戦後、四つのピークがありましたが、強姦、放火、殺人については大体3分の1から5分の1に、ピークに比べて減りました。97年に酒鬼薔薇聖斗事件(加害者は当時14歳)が起こったのがきっかけですけれども、凶悪犯罪が激増したというようなデマが跋扈しました。その背景は、動機不明への不安があるでしょう。

同じ問題が先進各国で生じています。70年代後半になると人格障害(パーソナリティー障害)が世界中にひろがたます。これは「病気ではないけれど、感情の働きが普通でない人たち」という概念です。ただ、何が標準的感情なのか、何が壊れているのかは、不明です。

人格障害と精神障害は対立する概念です。精神障害は「心の病気」です。刑法39条1項「心神喪失」の概念が典型ですけれども、何か犯罪を犯しても、罪は人ではなく病気にあると帰属処理できます。これに対して、人格障害は病気ではなく、その人に問題があるとされるケースです。性格が作られるプロセスは本人に責任がないとも言えますが、「病気でないのであれば、その人が責任を負う」「性格上の問題は、本人が自己責任で」が、市民社会ルールです。だから人格障害は、精神障害とは違い、処罰対象。

つまり「病気が悪か、性格が悪か」という区別があって、性格が悪の場合は、普通に罰せられる。性格が悪というのを、「感情の働きが普通でない」と表現しているわけですね。

ところが、昨今になればなるほど、「何が標準的か」についての合意形成が困難になります。眞子さん結婚報道でもそうですが、国民の統合の天皇議論でさえ合意が難しいのです。

郊外化・都市化現象がもたらす共通前提の崩壊です。見知らぬ人と一緒に暮らすいまの大規模定住社会は人類の長い歴史でみると「異常」。その分、世の中が多様になったとも言えます。

それとは別に、社会的意味論の崩壊もあります。たとえば、「貧乏だから食うに困って犯罪を犯した」といった帰属が昔は一般的でした。こうした帰属処理が可能ならば「自分や自分の家族や友人は食うに困ってないから大丈夫」と安心できます。

今回の京王線無差別殺人未遂事件のように、犯罪をした子が、周りから見ると、「普通の子」。普通に学校に通い、評判も悪くない。となると、突き放して見れず、安心もできず、「大丈夫なのだろうか」と不安になります。すると、ここからは「不安商売」の視聴率稼ぎがもっぱらなマスコミの一人勝ちです。マスコミは「不安のステイクホルダー」です。特に日本ではそうで、「何が正しくて、何が真実か」よりも「損得」ベースになりがちです。コロナ禍の報道が典型ですね。人々が不安になるほどマスコミにへばりつくので、マスコミは不安をあおるように動機づけられます。 相互依存関係。

背景は社会流動性の増大です。アカの他人と過ごす時間や空間が増えたのです。つまり、人の情報量が増えた。グローバル化すなわち資本移動自由化が進むと、金も人も国境を越えて移動するのが当たり前になります。かつてのように共通前提(お互い同じである)をあてにできません。

そう考えると、動機不明な犯罪が増えてきたのは、単に性格異常や人格障害が増えたという話でなく、社会的流動性の増大で、「何が標準的か」が不明になったこと。

もう一度確認します。私たちの社会が、「標準的」=「何が正しいか」を前提としない多様な社会、すなわち過剰流動的な社会システムへと変化すれば、動機不明な犯罪が増えるのは不可避で、それに伴う重罰化感情が噴き上るのも不可避です。


2、「メンヘラ化」する若者の激増 

次に「メンヘラ若者」について話します。これ自体は若者言葉ですが、「不安を絶えず埋め合わせないといられないこと」だと考えます。ここ十数年、結構増えてきたことがわかって来ました。私の考えでは、メンヘラ化は過剰流動的な社会への適応の結果です。今の社会は「場に応じて最も適格な人格を使い分けるようにするには、どうしたら良いか」という問題設定が大事にされます。最近は「KYを回避する」つまり「変なヤツだと思われないように場に応じて適切な振る舞いをする」ことが要求されます。

理由は、過剰流動的な社会だからです。「何が標準的か」が不明な以上、「場」に適合させることが合理的だと考えるようになったのです。しかし「過剰な人格の使い分け」の影響で尊厳=自己価値感覚不足に陥るのです。

次に、過去10数年間に、鬱という処方を受けて薬を処方される人の数が数十倍以上になったとも言われます。大きな背景は、薬物療法でしょう。 かつては精神科医によるコミュニケーションや精神分析が重要だとされましたが、薬を飲んだりして問題が改善するのなら、カウンセリングもコミュニケーションもいらないという発想が広がったことがあります。

もう一つは、インターネット化。「簡単に薬を処方してくれる」といった情報が一挙に拡がります。そこから先は悪循環。微妙なものでも鬱として処方を受けるので、30倍以上の数になった面もあります。ただ、実際問題として、病みやすい若い人がものすごい増えたことは、私の経験からも間違いないと思います。 

鬱病はもともと内因性に分類されます。外因性つまり外から障害を受けて脳がおかしくなったのではないし、器質性でもない。内因性というのは心理メカニズムのどこかが壊れているいと考えられるケースです。内因性の精神疾患については、基本的には社会ごとの比率がほぼ一定で変わらないと考えられてきました。

ところが、これだけ急激に変化するということは、「伝統的な鬱」とは違う鬱が増えたことを意味します。「軽い鬱」「軽いそう鬱」と呼ばれます。「伝統的な鬱」は、自己嫌悪傾向が強いのに対し、「軽い鬱」は他者攻撃傾向が強かったり、他者攻撃傾向と自己嫌悪傾向を頻繁に繰り返します。自分を責めたと思うと他人を攻撃するのです。

「伝統的な鬱」の場合、従来「自分についての理想が高く、現実の自分とのギャップに恐れ、人とコミュニケーションできなくなったり表に出られくなるのだ」というふうに言われてきました。ところが「軽い鬱」にそうした傾向はなく、むしろ社交的な若い人たちが「軽い鬱」にかかりやすい。非常に社交的な人間が、ある時点を境に突然病みまくるのです。こうした事実に私が気づいたのは数年前です。「出会い厨のナンパ師」の多くが「いま病んでいる」と言って自分の殻に閉じこもる。社交的どころか、モテまくっている連中が、そうなるわけです。

私に言わせると、過剰流動性社会への適応です。「出会い厨の逆説」と言われるものがありますが、出会い厨のナンパ師は、女とSEXする成功を喜ぶ裏側で、出会い厨ゆえに女性に対する不信を募らせます。意味分かりますか。女性に声をかければかけるほど、女性と経験を重ねるほどSEXの喜びが減るわけです。

似たことが若い人の性愛領域を超えて拡がっていると感じます。性愛に限定すると、モテるということの意味が以前とは随分違っている。たとえば、昔は異性と付き合うこと自体がレアだったから、食事をするだけでうれしいわけです。

過剰流動的になった今日では、「人間の入れ替わりが激しすぎて」、女性が男性から、「かわいい」とか「好き」とか言われても、「かわいい女性なんてゴマンといる。かわいければだれでもいいのか、こんにゃろう」というふうに思ってしまうわけですよ。


つまり、過剰流動的社会では、「関係の唯一性」が難しくなります。「私が存在しているだけでいい理由」「私が私でなければいけない理由」が不透明になります。それゆえに、「だれでもいいや」のごとく「自己や他者の価値」も不明になり、物や人の区別も曖昧になり、「すべてが入れ替え可能」に満ちた「中身のない人形」のように感じます。この「からっぽ」性、「入れ替え可能」性こそ、現代社会の究極的な「生きづらさ」であり、「不安の正体」であり、誰もが直面し得る課題なのです。

過剰流動的な社会は、関係性をつまみ食いをします。人格の「まともさ」を要求しません。むしろ、場に応じた振る舞いをすればそれでOK。自分や相手が何者なのかは問われません。その意味で「人」と「物」の大差がなくなる。


つまり「うまく生きること」と「まともに生きること」のギャップが大きく生じるのです。そうした社会では、「まともに生きよう」とするとかえって「うまく生きられなく」なります。 だったら「まともに生きよう」はかなぐり捨てて、「うまく生きよう」は合理的です。それがたとえ犯罪でも、引きこもりでも。こうした背景が要因でしょう。


3、関係性が希薄な若者 

⑴共依存

今の若い人は友だちがいません。いうと、「いるわ」とよくいわれますが、ほとんどが知り合いです。「メンヘラ化する若者」と関連しますが、次に「関係性が希薄な若者」という話をします。

SNSが爆発的に普及して以降、「共依存」が大人気です。もともと、アメリカにおけるアルコール依存症治療から生まれたことばですが、なぜか日本で昨今であればあるほど多用されます。「他者依存的」という意味ですね。若者のSNS界隈では「嫉妬」「独占」「ソクバッキー」があたりまえの「共依存厨」だらけです。「相互」や「安定」といった固定した閉じた関係性への依存もたくさん見かけます。

学校生活でも、「KY」ということばが2007年流行語大賞として選ばれたり、「ぼっち飯」「ぼっち授業」ということばがSNS普及と共に2010年代以降流行ったことからも分かるとおり、「KYになりたくない」「変なヤツだと思われたくない」ために「キャラを演じて」ある種のポジションを獲得、維持しようと必死です。

そのような演技空間が若者界隈で一挙に拡がります。こうした変化は実は1980年代から徐々に起こります。つまり、場の空気を読むことがより重要になってきたということです。 


(2)「彼女がいても心は非モテ」&SNSがもたらす疑心暗鬼

別に「心は非モテ」現象が、目立つようになります。性愛の悩みが、「セックスする相手がいない」というのから「関係が続かない」というものに大きくシフトしました。長続きがしない理由の最たるものは「ソクバッキー」つまり共依存現象です。日本人は元々、同質社会であるために、異質さに耐えられない。

スマホを盗み見た経験のある人の割合は、交際相手のいる二十歳代で7割近くいます。私の知る限り、SNSでもアカの他人のプロフや投稿監視が激しい。盗み見れば、たいてい自分の知らない異性との交流の履歴が残っているでしょう。それがセックスを意味するかどうかは別として、疑心暗鬼が生じやすくなる。不安です。

だから、たくさん保険をかける。こうして「悪循環」が回ります。その中で些細なトラブルがあるたびに関係を切ります。

今の若者SNS界隈で重要視されることは、「返信の速さ」「同じノリ」ですが、そうすると、コミュニケーションをする相手の数が増えても、「深みのある関係」「実りある関係」と言った関係の履歴が積み重ならない。

いつでも「関係を切る/切られる」を背景に、疑心暗鬼化の中で、「早く返信しろ」「今日はなにしてた、写メ送れよ」みたいな、女性を束縛したがる糞男つまりソクバッキーも増えます。

それらを背景に、「セックスはできるけど、関係性が得られない」あるいは「異性と出会えるけど、関係が深まらない」という悩みが広がるのです。 

SNSの「疑似プライベート空間」が拡がったことが、人間関係に、疑心暗鬼を持ち込みます。子どもだけではなく、親も同じようなプロセスで疑心暗鬼化しています。多くの人間が、「ネット危険論」、つまり「匿名メディアによる犯罪増加傾向」を指摘していますが、利用者数から見ればささいな問題で、実態を知らない頭の悪い人間の言うことです。 

もっと重要なのは、日本人のコミュニケーションのあり方の変質です。ネットコミュニケーションがノイジーなので対面コミュニケーションにコミットメントできなくなっています。

インターネット化は公的のみならず私的コミュニケーションも変質させるのです。日本では、私的コミュニケーションが、持ちつ持たれつ、住めば都という日本語が象徴するように、慣れ親しみと表裏一体で、社会的流動性を前提にした人格的信頼や人間一般への信頼が皆無なので、特に変質しやすい。 


まとめ

こうした全体が示すのは、社会的流動性の増大によって、関係性を築くための前提が希薄化している現実です。

全国から人が集まる東京ではとりわけ、近隣にどんな人がいるか、都市をどんな人が歩いているか、分かりにくくなります。でも日本人はどこに住んでいても、「お互い同じ」と信じ合えないとコミュニケーションを進められません。そう思えなくなると、突然コミュニケーションを進められなくなってしまう。

いわゆる女子高生言葉(ぴえん、はにゃ?)の大半が東京発なのも、それが理由です。90年代の東京が吉本ブームになったのも同じです。関西ではネタが割れた同士の甘えのコミュニケーションだった「ボケとツッコミ」を、ノリによって「同じ前提」を作り出そうとしているんですね。 ノリによって前提をその都度作り出さないとコミュニケーションを前に進められない。

共通前提が不透明だからその都度のノリで共通前提の代替物を作り出すことが「空気を読め」の背景ですが、ネットによる疑心暗鬼化も、ディープな話はネットで匿名ベースで行なうかわりに、対人関係を表面的コミュニケーションで終わらせる傾向を後押しします。
 
その意味で、「関係性の希薄化」の背後にあるのは、共通前提の消滅です。共通前提が消滅したので、関係性を深められない。日本人は異質な他者と社交する文化もありません。代わりに表面的コミュニケーション形式(ノリ)ばかりが発達します。

このことで「人間の入れ替え可能性」(透明な存在、からっぽな自己)意識をさらに強化させてしまうのでした。


背景 
ここまでに、動機不明な犯罪増加、メンヘラ化する若者たちの増加、関係性が希薄な若者たちの増加について、「現状」をお話ししました。次に、それがどうしてもたらされたのか、背景をお話しします。


1理論編:〈システム〉(鉄の檻)と〈リアル世界〉希薄化 

まず理論編。〈システム〉と〈リアル世界〉とはどういう概念かを説明しますね。社会学者・マックス・ウェーバーの言葉を使えば、私たちの現代社会は〈システム〉です。役割&マニュアル的な計算可能&入れ替え可能性が支配的になった領域のことです。コンビニやウーバーイーツやアマゾン的なものが典型です。それに対し、残りの領域が〈リアル世界〉です。役割&マニュアルではなく、人間の思いやりが支配的であるような領域です。〈システム〉は役割&マニュアルが支配するのに対し、〈リアル世界〉では人間の善意なり自発性が支配します。

決定的違いは、簡単に言えば以下の点。〈システム〉は匿名的で、入替可能で、過剰流動的であるのに対し、〈リアル世界〉は記名的で、入替不可能で、流動性が低いということです。

まさに「だれでもよい」のがシステム。労働者も「使い捨て」が可能です。「アンタをクビにしたって別の替えが存在するぜ」で終わりです。

〈リアル世界〉はそれと対照的で、コンビニやウーバーイーツとは違って、地元商店街的なものです。店で立ち話が生じ、「もっとまけてよ」「持ってけ、どろぼう」みたいな世界です(笑)。それと性愛や友愛領域。

コンビニ的なものに比べて計算不可能ですが、コミュニケーションが関係の積み重ねによって形づくられた信頼に依存するので誰にでも開かれてはいません。しかしそのぶん「心の支え」があります。一方で、コンビニ的な的なものは開かれていますが、「心の支え」はないです。

ウェーバーは〈リアル世界〉が〈システム〉に置き換えられていく動きのことを「近代社会」と呼び、人間はシステムの一部となり、それを「鉄の檻」と呼ばました。

〈リアル世界〉が〈システム〉に置き換わっていくプロセスの当初は、リアル世界の「私達」がより便利で豊かになるための手段として〈システム〉を使うのだと、理解できます。

ところが、〈システム〉がある程度以上に広がって〈リアル世界〉が希薄化すると、もはや「私達」が〈システム〉を使っているとは言えなくなる。ネット化がそれを強化しました。

従来、農村のコミュニティの相互扶助を、市場や行政サービスに置き換えます。

例えば、人間関係を頼らず、コンビニ的なものを使うようになる。 

加えて、「知らない人は信頼できない」という前提に変わります。その結果、市場ではセキュリティ産業が隆盛になり、行政は監視カメラ化や警察官増員の方向に動くようになります。犯罪の重罰化の動きを後押しします。

街では「日本人とだけ」 視線が合わない。国家が命じたわけでもないのに相互監視が始まり、何かというと国家が呼び出されます。 

もう一つ申し上げれば、〈リアル世界〉が希薄化して〈システム〉が支配化することは、従来の人間関係も変わることを意味します。ひとつ屋根の下の家族よりも、出会い系でやりとりしている知らないおじさんの方が、よほど仲良くなれるという現象です。 

一口で言えば「人間不信&神経質化」が生じました。

社会の全体がどう回ってるのかがわからないで、自分が見えるところだけをきれいにする「KY探し」ばかりが広がります。並行して、見えない部分に対する疑心暗鬼化がどんどん広がるということです。街で人とすれ違う時も自己防衛的でヒリヒリします。犯罪件数は激減したのに、不安だけは増す。当てにできる共通前提の消滅が原因です。


2歴史編:二段階の郊外化・都市化

次にそうした変化がどういう経緯で生まれてきたのかを、歴史的に記述します。〈リアル世界〉の希薄化=〈システム〉の支配化は、郊外化・都市化の動きと並行します。アカの他人と一緒に過ごすようになったということですね。 

「第一郊外化・都市化」は、60年代の団地マンション化です。「第二郊外化・都市化」は、主に80年代のニュータウン化です。第一ステージでは「地域空っぽ化×家族引きこもり化」が特徴です。つまり、かつては醤油の貸し借り的な地域の人間関係や子どもの子守りなどを、専業主婦、つまり、「女にすべて押し付け」ます。

ちなみに日本で専業主婦率が最も高いのは「団塊世代」です。この世代は、団地で育った最初の世代。団地マンション化は、従来の農村の人口が都市部にうつった。「男はサラリーマン」として、「女はサポート役」として働きます。

第二ステージは、が「コンビニ&ウーバーイーツ&アマゾン化」です。このプロセスは「家族からっぽ化×マニュアル&役割の加速化」が特徴です。

まあ簡単に言えば、専業主婦化の流れが緩和されて、そのぶん市場や行政サービスが利用されるようになりました。共働きが増えた分、生活の多様化をもたらしましたが、家族的な絆の希薄化という暗黒面を伴いました。 

その代表が「第四の居場所探し」です。思春期の子たちには「第四の居場所」を探し始めます。つまり、「心の支え」を家族ではなく「第四の居場所」に求められるようになりました。

三種類あります。一つは70年代末から広がる「バーチャル現実化」。アニメやゲームです。次に80年代半ばから拡がる「匿名メディア化」。1985年に誕生する世界初の出会い系が日本で始まります。90年代以降のインターネット化もここに含みます。 第三は、80年代末期から生じる「ストリートブーム化」です。ヤンキーと区別されるチーマーです。ヤンキーとは、暴走族が典型ですが地元の裏コミュニティです。「若気の至り」はあってもやがて「卒業」し、地域の祭りで神輿のかつぎ手になります。

これに対し、チーマーとは、渋谷センター街のようなストリートに集う、互いに本名を知らずにニックネームだけで呼び合う関係です。ここからギャル文化が出てきました。

そうです。「第四の居場所探し」とは、学校でも家でも地域でもない場所という意味です。


歴史的にさらに詳しく記述します。

明治期の日本人は、生まれてから死ぬまで一緒にいるが如きムラ的コミュニティを生きました。日露戦争後の都市化は、とりわけ都市部の住民に、アカの他人と共に暮らすという新しい環境を強いたため、都市部での神経症の増大をもたらします。

埋め合わせる動きが二つある。一つは、大正期の都市部の大企業から採用された終身雇用と年功序列の制度、後に人呼んで「日本的経営」だ。これは「ムラ的コミュニティ」ならぬ「会社コミュニティ」を生みました。敗戦後、全国的に一般化します。

もう一つが「近代天皇制」。「天皇の赤子」という観念が「誰もが同じ日本人」というそれまでなかったファンタジーを与えた。こうした「共通前提」が都市化で空っぽ化するムラ的コミュニティを埋め合わせました。ちなみに敗戦後は、共通の戦争体験と戦後復興、豊かさへの願望が、「誰もが同じ日本人」意識を与える。

二段階の郊外化・都市化

みんなバラバラに。当然近隣は知らない者同士。米国ならば週末毎にパーティーを開いて仲良くなる。日本にはこうした伝統はない。孤立した母親は「子どもに過剰関与」へ。

70年代頃「母原病」が話題になる。母親がオカシイから子供がオカシクなるという類の議論は単純すぎます。むしろ、「専業主婦への負担過剰」問題です。専業主婦へ負担過剰を専業主婦の無能に転嫁したのが「母子依存」です。子供をいい学校に入れることが誰からも褒められる母になれると勘違い。

60年代に「モノの豊かさ」を達成すると、日本人にとって、何が良きことなのか分からなくなります。すでに述べた「なにが標準的か」不明問題。「からっぽ」を埋めたのが「日本的学校化」=「学校幻想」と「核家族ロマン」です。

子供も「いい学校」に入れて、「大人が期待するいい子」でさえすれば良いのだというトンデモ発想が、全階層に拡がりました。

このことは、家計に占める教育費の割合や塾通いの比率が急増すること(75年の総務省統計)からも分かります。

かつて学校と家と地域は別々でした。学校で勉強ができなくても家業を継げりゃいいとか女は嫁に行けりゃいいとか。それがなくなった。子供から見ると、家でも成績のことをいわれ、地域でも勉強や進学の話しか評判にならない。 

「良い学校・良い会社・良い人生」的な「妄想」を押し付けられる子ども。たとえ、周りから見て、「いい子」にみえても、内面は劣等感に満ち溢れます。

もう一つはすでに述べたが、母子の共依存関係。諸外国に比べて、日本人の母は子どもと心理的な一体感を通じて安心する傾向あり。

70年代後半に家庭内暴力が問題になり、依存的暴力という形態が明らかになります。「自分の成績低下も性的未熟さも全て親のせい」と依存するがゆえに暴発する。そう、「良かれと思って」親が子供をコントロールすることで深刻な尊厳不足が生じます。でも、親が馬鹿だからだという話じゃ済まない。

こうしたプロセスが進む背景に民俗的伝統があります。

第一に、日本の父親の特殊性。「世間」の風を家に呼び込むことでポジションを保つ日本の父親は、「世間」が崩壊すると直ちに存在感を失います。

第二に、宗教的伝統に支えられた「欧米流夫婦中心主義」でなく、「ムラ的子供中心主義」があること。だから、核家族化が進むと、親は「いつも子どもまみれ」で、子供への過保護&過干渉で家族集団を維持したがり、母子依存。

日本ではもともと爺ちゃん婆ちゃんや地域の年長の縦社会の中で子どもを育てることで社会性が伝承されました。日本の親は子供をしつける伝統がなく、地域の空っぽ化と母子依存化でむしろ「余計なしつけ」は増えます。いまは親の言うことが従われなくなるか、親に従った結果かえって社会を生きられなくなるか、です。

「地域の空っぽ化と母子依存化と日本的学校化を背景に、親にコントロールされ、社会を生きる力を失った存在」が社会に蔓延します。

これでは日本人の尊厳=自己価値が不足する。

このような背景もあり、「自分の尊厳を奪われない第四の居場所」を求めるという動きが拡がったのです。 「リアルネームを捨てた存在になることで自由になる」こと。リアルネームは尊厳のない自己イメージと結びつくからです。


だれでもよかった系殺人の加害者考察

「秋葉原通り魔殺人事件」「新幹線無差別殺傷事件」「小田急・京王線無差別殺人未遂事件」などの「だれでもよかった」系動機不明犯罪は、「子供の自立機能」「パーソナリティ安定機能」を果たせなくなった社会の姿を見出せる。と同時に「第四の居場所」が、全ての子供や若者に開かれる訳でないという事実を見出せる。たとえば、秋葉原通り魔殺人事件の容疑者が「携帯サイト」に書き込んだ内容を手がかりにして、分析を加えます。

❶「リアルでも一人。ネットでも一人」「みんな俺を避けている」などの書き込みから見ると、社会に居場所が見つけられない不満を強く感じていた。今回の京王線無差別殺人未遂事件もそうだろう。背景には、若者コミュニケーションの変質がある。既に述べた。かつては人づきあいが苦手な若者たちの『居場所』が若者文化の中にあった。オタクも秋葉原もその象徴。ところが今日ではそうではありません。

❷一口で言えば、オタクのコミュニケーションが「うんちく競争」から「コミュニケーションの戯れ」に変わった。変化の背景に、アニメや漫画やゲームなどの普及があるでしょう。


❸秋葉原事件は、オタクでさえ救われない若者がいるという今日的コミュニケーションの状況を示します。被害者は多くが、若者の「コミュニケーションの戯れ」を象徴ように、連れ立って秋葉原に来ていた若者たち。今日、「友達がいない者」にとっては、秋葉原でさえ居場所にならないということなのです。


❹かつてはオタク文化が「第四の居場所」となり得た。ところが、今は無理。皮肉にも、「コミュニケーションの戯れ」が全体に広がったからです。 

❺秋葉原事件の容疑者にも、帰る場所ー家族や地域ーがなかった。「県内トップの進学校に入って、あとはずっと底辺。高校出てから8年、負け人生」「親が周りに自分の息子を自慢したいから、完璧に仕上げたわけだ」などの書き込みは、家族が子供をコントロールしている今日的な状況を示します。


❻日本人の子どもは家族が楽しいと思えず、大人を尊敬できないという割合が極めて高い。

❼今は新卒一括採用ゲームでの勝利ー親が喜ぶ大企業への就職ーは必ずしも労働市場での人材価値を保証しない。つまり、新卒一括採用・年功序列・終身雇用とそれに基づいたみんな横並びの教育をやめなければいけません。むしろ専門性をもつ人材が価値のある時代である。なのに教育界や親はいまだに「いい学校・いい会社・いい人生」「周りに合わせなさい」などと呆れてしまいます。この「勘違い」で飯を食う教育関係者と昭和的価値観に染み付いた親世代を市中引き回しにせよ。

❽「いい子」として過ごした。そして友達がいないがゆえに容疑者は親にますますコントロールされて、親や教育関係者によって与えられた「勘違い」を正すチャンスを失った。「頑張れば、努力が報われる」「大して努力もしないで、お前は甘えている」という単純な話ではないことが、示されています。


まとめ

どんなアニメを話題にするか、どんな音楽を聴くか、どんなファッションを選ぶかで、コミュニケーション相手をスクリーニングし、同じ考えや価値観の人間、計算&予想可能な相手を選ぶことで「脆弱な自己」が路頭に迷うことを防ぎます。

背後には(1)互いに同じ前提を共有しないと前に進めないムラ的コミュニケーションがあると同時に、(2)かつて当てにできた農村地域がなくなって、近隣に誰が住んでいるか、どういう人がいるのかわからなくなったので、「からっぽ」になり、その都度、「共通前提」を作り出す必要がある。「変な人に思われたくない」「周りから浮きたくない」「イタイ奴だと思われたくない」ので、割り当てられた「場」でキャラ演じてノリを永遠と楽しむことが目的化します。

以下の要素が状況を悪化させます。

まず(a)コミュニケーションを通じて「承認経験」が積み重ならないので尊厳=自己価値感覚のレベルが上がらず、だから周囲に右往左往。だからより表面的コミュニケーションが進み、承認経験が得られないという悪循環に陥る。

つぎ(b)社会が「みんな仲良し」的同調を要求す馬鹿げた伝統です(九割が協調性を重視するというベネッセ調査もある)。

だから「私が私でなければいけない理由」がさらになくなり、「等身大でありのままの自分」に価値を感じることはできず、不安で精一杯。

(c)社会側から期待される「いい子」。条件付き承認しか与えられないので、子供は親にさえ「ありのまま」をさらせなくなり、承認不足が生じる。承認不足は尊厳レベルを下げる。



かかる変化の果てに見出せるのは今の社会には「子供の自立機能」や「パーソナリティ安定機能」が皆無。

社会が「安心安全便利快適」だと「人は幸せか」というと逆です。 

日本の子どもの自尊心、若者の自殺率、大人の幸福度はすべて最悪です。引きこもり、無縁死や孤独死が蔓延する糞社会です。

もう一度繰り返しますが、「ヤッたのがたまたまアンタじゃなかっただけで、アンタがやっていても不思議はなかった」ということ。社会が犯罪者をロシアン・ルーレットで選ぶのです。


現代社会に生きる人々すべてが突きつけられているこの「からっぽ」問題とどう向き合うか。次回は処方箋について。

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