誰かをおもって
私は写真を撮る。
文章を書く。
文章を訳す。
絵を描く。
飾り文字を書く。
音楽を奏でる。
歌を歌う。
ほとんどが趣味のものだが、なかには仕事としてのものもある。
特に仕事の場合なんだけど、一生懸命考えないとどんな層向けかをイメージできない。マーケティングなんかでペルソナの設定などと言われるものだ。仕事柄、そして兼業でも必須のことなのだが、実はあまり得意ではない。日頃から行っているので慣れてはいる。でもやはり実在する人間に向けてやるほうがいろいろ楽だ。
仕事ではマスを対象とすることが多い。マスのなかでも対象はある程度上の年齢層なのだが、それでもあえて受け手を中学1年生くらいに想定して行っている。マスを相手にする以上は、いかに平易な表現ができるかは重要だ。
難しいのは、専門性を担保したいものをつくるときだ。中1を想定したアタマではとても専門性なんてものは担保できない。小ばかにしたようなものが出来上がってしまうことが多い。そんなとき簡単にペルソナを切り替えることができればよいのだけれど、なかなかうまくいかないのだ。細部までこだわりすぎてしまうせいかもしれない。あるいは一度設けたペルソナの変更(置き換え)じたいが苦手なのかも。致命的だね。
記事の執筆や翻訳の場合は、媒体が想定するペルソナが既に用意されているから、それにをあてはめるのはそこまで大変じゃない。人が用意してくれた船に乗り込むのは慣れている。威張れることじゃないけど。
趣味のカリグラフィーでメッセージを書く場合、練習で気取ったデザインを描こうとするとどうしても力が変に加わったり、妙なところでペンをとめたりしてしまう。その一方で、例えば友人の結婚式で一同で送るメッセージカードの中央に「Happy Wedding 〇〇 & 〇〇」なんて書くときは、とても書きやすい。誰に向けてかはっきりしているから。下手だけど。
絵や音楽の場合も趣味だから、不特定多数の中にペルソナを浮かべて……といった経験がない。ただ自分の知っている誰かに向けての音楽、誰かに向けての絵として表現するから、おもいを込めやすい。
というとこれまたロマンチックだけど、実在して自分に近い人間に向けてがほとんどだから、メッセージを表現しやすいのだ。感謝であったり、祝福であったり、尊敬であったり。
私のような内輪にしか聴かせたり見せたりしない人間の場合は、”おめでとう”や”ありがとう”は、比較的音楽や絵、飾り文字にこめやすいものなのだ。口にするより楽だしね。シャイなもんで。笑
俗にいうマスメディアは、もしかしたら昔はペルソナ設定なんて不要で、物量でバコーンとやっていたのかもしれない。だんだん、ざっくりと〇〇代、とか主婦層とか対象を絞るようになってきた。しかし散々言い尽くされているけれど、現在そしてこれからはいかにペルソナを絞った良質なコンテンツを発信できるかが問われる、らしい。
個人的にもそっちの方が得意だなと思いつつ、それって結局プロアマを問わず、思いを込めて何かを表現する昔から人々の手で作られてきたもの。ハンドクラフトの創作物が、電子の世界ですごいスピードで世界中を無数に飛び回るようになったってことじゃないだろうか、と思う。
20世紀を越えて、21世紀になっても、作り手と受け手の間に伝導するのは結局はおもいなのかな。だとしたら凄いことだね。
ならまずは、まだまだ技術的にも未熟な表現の数々を、まずは身近な人へのメッセージとしてかたちづくっていくのがいいかな。まだ見ぬ人に届けるための予行練習として、また身近な人におもいを伝える実践として。
なので、なんかあったらお届けします。ペンと紙とカメラはあるんで。歌は…カラオケ連れてってくれ。笑
ここのところの一連のモノローグを読むと、まるであたかも頼りがいがあってあたたかみのある人間のような書きぶりだけど、私はいたって適当で薄情な人間なので、決して勘違いしてはいけない。散りばめられた「偉そう」感が本性だ。そして冷凍ミカンのような薄情さを覚悟してほしい。
実際いま頼られて困っている。ストロボもないのにウェディングフォトを頼まれ、デザインの経験なんかないのにWedding Boardのレイアウトを任された。いや、まじかよ。たまったもんじゃない……こういう経験は嬉しいけど。
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