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自らを磨き社会に還元

恩納村真栄田の宇加地で運営する、難病の子どもとその家族を応援するための「泊まる社会貢献」社会貢献型ホテル“青と碧と白と沖縄”に先日、首里城復興工事に携われた宮大工、後藤屋五代目の後藤史樹さんがご利用されました。(本人の許可を得て取材、記載)

後藤さんは中学校を卒業し、父を親方として約50年、宮大工の厳しい世界を歩まれてきて、このたび首里城の復興工事に携わりました。その仕事は、首里城の主要な構造材を造り、組み立てていく上棟工事、いわゆる建て方工事を完了させ、今回、重い肩の荷を下ろして、ご宿泊いただきました。

「見せる復興」をテーマにしたこの首里城復興工事は、今日もなお、2026年秋の完成を目標に進められていますが、沖縄出身の7名を含む全35名の大工が全国から集められ、その平均年齢は20代後半と、とても若い人材が頑張ったそうです。

窓ガラス張りで国民にもその仕事をする光景を「見える」ようにした珍しい環境の中で、後藤さんを含めた大工たちのエネルギーになったのは、地元の沖縄県民の復興を切に願う応援と多くの観光客の熱視線だったそうです。

沖縄県国頭村で切り出された樹齢98年、約9m、約4トンにおよぶオキナワウラジロガシを筆頭に、祈りをささげる向拝柱などに使用されるイヌマキ材、そしてヒノキ材等、柱と梁で総本数513本を22府県から集められた木材を基に、宮大工として長く貴重な経験をもつ後藤さんは、その若い大工への指導役としても、首里城ならではの曲線美の唐破風、そして向拝柱など一本一本を造り上げ、奥さまが愛情を込めて作り漬けした梅干しで塩分補給をしながら、汗を流し、大仕事を完成させました。


私は、全てのどのような仕事にも、二つの意味があると思っています。

それは「このいのちある、いま、この社会のため」と「このいのちある、ここ、自分磨きのため」の二つです。

後藤さんは、この社会のために、宮大工として先祖からその意志を受け継ぎ、その世界の「いま、むかし」を伝えました。

電気工具がまだ無かった時代から宮大工は特有の工具を使いこなし、人間の力と工夫で偉業を成し遂げてきました。手斧(ちょうな)と呼ばれる、いわゆる現代の鉋(かんな)にあたる道具を、後藤さんも数十年ぶりに使い、一振り一振り、いまへの継承とむかしへの感謝の想いを込めて、若い職人たちに魅せました。木造の建築物が少なくなった県内では、大工仕事も需要が減る一方で、その職人を改めて育てていくという熱い想いも込めて、電気工具が無かった時代から自分自身も学んだ工法を、後輩たちに繋ぎました。

仕事は、この社会のため、にするものです。そう考えると、例えば、農家の仕事は米や野菜を作ることではなく、人の健康やおいしい笑顔を作ることであり、また、さまざまな保護施設の仕事は、身寄りのない人を支援することではなく、どのような環境の人でも、最後まで諦めないで一緒に寄り添う社会をつくること、だと思うのです。それぞれの仕事には、いま、だからこそ、大切なことがあると思うのです。

そして、もう一つの意味、「このいのちある、ここ、自分磨きのため」。

後藤さんは、昨年10月に建物の腰に当たる小屋丸太梁、あの大きなオキナワウラジロガシが載せる時に、一番の緊張と興奮を感じたと話されました。

その瞬間、梁を載せる時、自分の師匠である亡き父親の声と殺気をその背後から感じたそうです。74歳で逝かれた師匠の父は、その大仕事の緊張で震える後藤さんに「ひるむな。いけ。」とその背中を押す声が聞こえたそうです。一意専心、父の大切にしていた言葉と、いまになってもその師匠である父を越えられないと感じている後藤さんの言葉は、まさにいまなお、磨き、成長を続けられている本当の仕事人と思いました。

仕事は、自分自身を磨くためにするものと、改めて後藤さんに教わりました。

そして、その後藤さんも最後に、この沖縄で学んだことは、お墓の前で御先祖たちに宗派も全てを越えて、ただただ祈り、感謝する、その姿に多くのことを学ばされたと、話されていたのも印象的でした。

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