見出し画像

「時代を生きた人たち」

幼年期:「母」

母に連れられ、門司港駅を利用したことを思い出す。
手を引っ張られ、いつも宙を飛ぶように小走りに歩いていた。
何で急ぐ必要があったのか良くわからない。

5つ年上の兄、3つ年上の姉がいたにも関わらず
「いつも私だけだった」のか、よく覚えていない。

駅から歩いて10分弱の小高い所に母の実家があった。
今、私の住む団地の2軒分になるであろうか。
当時としても大きな家だった。

家に着くといつも祖父がいた。
祖父は、祖母が30代後半、病気で亡くなって直ぐに後妻を娶った。
祖母は、母と少ししか離れておらず、祖母を呼ぶときは名前で呼んでいた。
「おかあさん」と言えなかったんだろう。

母は二人兄弟で、3つ年下の弟がいた。
本当にいい叔父さんだった。

汽車が好きで、運転手を目指して国鉄に入り
その後、特急電車の運転手をしていた。
その叔父さんも、母と同じく、今はいない。

祖父は、門司港で港湾荷役の仕事を営んでいた。
多い時は、100人近くの人足を抱えていた。

毎日、人の出入りが激しく、人足たちの声が飛び交い
賑やかだった。
門司港、門司港駅、商店街、街全体も活気に溢れ、賑やかだった。

母は女学校の頃から家業の、人足の手配を手伝っており
人足からは、「お嬢」と呼ばれていた。
そのせいか、気性が激しいところがあった。

京都の師範学校に行くことが決まっていたが、空襲が、日に日に激しくなり
断念したとよく話していた。

その後、家業に専念することとなる。

「私を連れて帰るときは、決まって、今は亡き父とぶつかりあった時に、実家に帰る時だった。」

今思うと、兄も姉も寂しかったことだろう。
1日、2日で、また直ぐに家に帰っていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?