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生きてほしい、とは思っている。

生きてほしい、とは思っている。
だが、それは……。

 北東北の山奥、ド田舎のさらに山の上。封建的な男尊女卑の家父長制が色濃く残る地域で「長男」として君臨するこの兄に対して、母親は過保護であり過干渉だった。そして兄から二十歳離れて生まれた末っ子の長女である私は、母によってこの兄へ捧げられたも同然だった。
 陰に日向に世話をせよ、尽くせ、と。
 今にして思えば、彼女には彼女なりの事情があったのだろう。だからと言って「すべてを許す」なんて心情には到底なれないが。

 十二指腸潰瘍をこじらせ、緊急入院・緊急手術で病院に呼びつけられたのは、私の髪が抗がん剤のダメージから回復し、ようやく坊主頭ほどに生えそろった頃だった。
 運悪く、手術中の事故で治療が長引いた。そのために職を失い、兄は我が家へ転がり込んできた。身体が回復しても、なんやかんやと理由をつけては職を求めることさえしなかった。当然のように日がな一日家にいてテレビをみている。フルタイムで働いて帰り、猫の世話と兄の世話をする。洗濯がなされていることもなければ、掃除されていることもない。腹がへってるんだ、飯を早く出せよ、と平気で言う。質問をすれば舌打ちをする。答えがないからと聞き返せば怒鳴る。

 この頃の私は常に怒っていた。「私は自分の怒りで焼け死ぬんだ」と思うほどに。毎日毎日、肚の底が煮詰まるジリジリとした感覚があり、低く唸るような怒りを抱えていて、ときにそれは暴発した。
 社会生活は「普通」にやりすごし、雑談もして笑い、冗談を言って人を笑わせることだってある。平穏に。だが、私の目は笑っていなかっただろう。作り笑顔の裏側が凍てつき、おかげで笑顔の仮面が上手く貼りついている。冷えた気持ちが表に出ないように、そればかりを気にしていた。
 そんなときに傾聴に出逢った。
「怒りは第二感情だからね。奥には悲しみがあるよ」
 そんな風に教わっても、当時の自分にはまったく受け入れられなかった。
「怒りは怒りだ。悲しみになんか、すり替えられてたまるか」

 昨年兄は再び病を得た。悪性腫瘍。私は輪を掛けて忙しくなった。
 キーパーソンとして、複数の医療機関との調整、スケジュール管理、医師の見解を別の医師へ伝達し、それに対する意見伺い……。擦りきれるような気持ちをなんとか奮い立たせ、なおかつ兄を宥め賺しながらの手術、ケモ(抗がん剤治療)と繋げてきたが、ここにきて見通しが悪くなった。医師の口からは「早晩動けなくなっていくだろうから、そいうった施設への紹介状はいつでも書く」旨の話が出る。
 少し黙ったあと「ん。もう、俺も歳だからな」とボソリと答えた声からは、泣くのを堪えていることが伝わってきた。

 帰宅し、のそのそと着替えそのまま布団に横たわる兄の背中を見ていた。
 この背中を、ずっと怒りを抱えながら見てきた。

 何故、何もかも人任せなのだ?
 何故、一つでも自分で決めようとしない?
 何故?

 「あなたの命を、私は生きることができないんだよ」とはっきり伝えたよね?
 それなのに、何故?

 ああ、私は悲しいのだ。
 まるであなたの人生を、半分背負わされるように生きねばならない自分が。

 いや、違う。まだ、奥がある。

 自分の人生に向き合わないままのあなたが、悲しいのだ。
 私に生かされるあなた、で終わってほしくない。
 生きてほしい。
 だが、それは。
 生き永らえてほしい、というのではなく。
 あなたの人生を生きてほしい。
 あなたの命に向き合い、あなたの人生を愛してほしい。

 それはきっと、私自身の、人生への渇望でもあるのだ。

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