風太郎日記

ふうたろうともプーたろうとも読めます。風に吹かれて流されて、では情けないかなと抗う気持…

風太郎日記

ふうたろうともプーたろうとも読めます。風に吹かれて流されて、では情けないかなと抗う気持ちだけはあるようですが、ほとんど毎日流されています。

最近の記事

古希

古希をお迎えしたのを機に身体のあちこちが悲鳴を上げ出したように、急激に調子ダウン。今日は泌尿器科のCTによる精密検査、この一月ほど血尿が治らず、朝一番に受付で待機している。今朝は今朝で、起きてすぐに心臓のあたりが苦しくなり、こりゃ受診さえできないのではと思ったものの、なんとか落ち着いた。ここまで生きてくると、命の終わりというものをまさしく肌で感じている。生と死がとても身近になり、つまりは限られた時間を生きるということにも、いくらか真剣にならざるを得ないようで、これも歳を取るこ

      • カボチャを育てるのが、というより、雄花と雌花の花合わせが、まるで仲人かキューピットのような気持ちになって、ほんと楽しい、大好きだ。人工授粉なんて野暮な作業言葉じゃなく、あくまでも花合わせ。朝早くから開いて、お昼前には閉じてしまうんだろう、ほんの片時の逢瀬に手を貸す気分、悪くない。

        • 丹田

          月暦長月九月廿四日 気功に専念するようになって一年と半年が過ぎた。百日築基というから百日間休まずに続ければなにかものになると思っていたのは、どうやら大きな間違いで、もはやなんの期待もしないでおこうと決めていたのに、昨日あたりから幾分ちがう感覚を味わい、たぶんこれが丹田だろうか、下腹部のその辺りに小さな命が宿ったような男子にはちよっと面白い体験をしている。そう言えば、長く気功に親しみながら、肝腎要の丹田はスカスカだったような気がする。これでようやくスタートラインに立てたんだろ

        • カボチャを育てるのが、というより、雄花と雌花の花合わせが、まるで仲人かキューピットのような気持ちになって、ほんと楽しい、大好きだ。人工授粉なんて野暮な作業言葉じゃなく、あくまでも花合わせ。朝早くから開いて、お昼前には閉じてしまうんだろう、ほんの片時の逢瀬に手を貸す気分、悪くない。

          夢とか希望とか

           懐かしいブログを見返した。あのころは天真爛漫、などというよりあっけらかんと能天気なただの凡夫で、今はニヒリズムに浸って楽しんでいるようなただの凡夫。それでも読んで思い出したことがいくつかあって、その筆頭は、友、だろうか。この人生の友人は数少ない、そして少ないからこそ、一人一人の友との思い出が蘇ると、今でもその日々で感じていたことやシーンが、まるでスクリーン上に再現されているかのように鮮やかに心の目に浮かぶ。  この一二日、夢とか希望、あるいは願い事という、おそらく人間しか

          夢とか希望とか

          岩の愛、人の愛

           『心身の神癒』の第一話、ほぼ冒頭に「愛は鉱物における親和力である」という一節があり、月明かりの白山の頂で過ごしながら、山というより、まるで取り憑かれるように、圧倒されるばかりの岩ばかり見て、この言葉を思い浮かべた。白山は活動度が低いとは言え、1659年の噴火を最後にした活火山の一つに数えられている。御前峰山頂に浮かび上がる岩にふれると、冷たいはずのその肌に温もりが感じられるような、不思議な気分にさえなる。硬い鉱物がどのように形成されたものやら、想像すら届かないけれど、風雨に

          岩の愛、人の愛

          名月と白山

           仲秋の名月の宵、数年ぶりに白山の頂を歩いた。ところどころ風が冷たく吹き荒れ、これがこの人生で最後かもしれないと挫けそうになり、岩陰に入ると正反対に無風状態で、居眠りしそうなほど安穏として、ふるさとの霊峰は実に気まま、佇む人は吾一人ながらその気ままな大自然に抱かれる気分を分かち合う相手は、意外にも間近に感じられた街灯り、どこの町だか、食卓を囲む家族団欒、夜に働く人もいて、愛する人を喪い泣き崩れているシーンまで浮かんできた。霊峰白山は、こうしてすべての人の営みをいつも見守ってい

          白山にて、星々とともに

           朝まだきの公園などで気功しながら過ごすようになり、晴れた日は星々を仰ぎ見る楽しみが生まれた。これはまさしく、実に楽しく、愉快でさえある。高齢者の仲間入りをする世代になるまで知っていたのは北斗七星やオリオン座ぐらいで、最近これにようやくシリウスが加わり、その名前を口にして手を合わせてみたり、向き合って練功したり、まるで懐かしい旧知の友に出会ったような小さな感動を味わっている。星々と語らう、と言ってももちろん一方的な会話でそれも実際に声を発するわけではないから、語らうというのは

          白山にて、星々とともに

          ある空間

          綺麗なだけの写真を撮り続けてきた凡夫は、撮ることの意味を考えながらついには見つからず、今では路頭に迷った羊同然、けれど感じることだけは疎かにしないと、仕事の合間にも目を配り、茫と過ぎてゆく時間に抗い続けようとする日々。これは撮影で訪ねた温泉宿に隣接する廃屋の外壁、少しでも美しく撮ろうとしている宿とのあまりの対比にそそられついスマホを向けた。崩れた静かな空間に蔦が生きて、まるで死者と対話でもしているようだった。この窓の内からどんな人が顔を覗かせていたんだろう、忘れ去られたあれや

          萩の海

          早朝の萩の海を前にしての気功もまた悪くない。昨晩は深夜零時でようやく撮影終了、布団に入ったのが一時で五時には目が覚めた。歳のせいもあるだろうが、気功をやり込むにつれ自然に目覚めるから不思議、それで一日中ぼーっとしているかというとそうでもなく、十分程度の午睡ができれば割と快適に生きていられる。今日も一日仕事、どんな体調で過ごせるものか、観察する楽しみもある。それにしてもコロナ禍の休業で大打撃を受けている観光施設、なかでもホテル、旅館、ゲストハウスなど宿泊部門は維持するのも大変、

          怒り

           うだうだと小うるさい老母を怒鳴りつけた。ありゃぁ怖い顔、そんな怒らんでもいいがいね、という一言にさらに苛立ち、あんたがこういうふうに育てたんやろ、怒ってばっかりの毎日やったやろ、その反動じゃ。六十六年目の反逆というわけか。けれどそれですっきりするどころか、胃がしくしくと痛む。感情が身体に現れる、これが初めての経験かもしれない。  いつだったか、もう亡くなったセラピストの友人がこの背中に手を当てながら、怒りが溜まってるよ、とささやいた。こんな世の中じゃ怒りもあるでしょう、ぐ

          豆乳野菜ジュース & 食パン

          豆乳野菜ジュース & 食パン

          蛇の子に供華の薫りや藤の愛

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          水田這う春一番を追うわらべ

          水田這う春一番を追うわらべ