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光を見ていこう、と

今日は、春馬くんの7回目の月命日。

今朝、早朝にふと目が覚めた。
すぐに「ああ、今日は月命日だ」と気づき、涙が溢れてきた。やはり、春馬くんがこの世界にいない悲しさはまだある。それは、おそらくずっと消えないかもしれない。新しい春馬くんを見られない悔しさも。心の中に悲しみという霧がかかっているような、それがちょっとした刺激でかき乱されて涙腺を刺激するような。

先日書いたnote記事で、そんな中でも、時々、尊さと感動と感謝の気持ちが湧いてきてその霧を一瞬晴らす瞬間が起こることを書いた。

昨日は、春馬くんのお母さんのニュースが出ていた。嬉しいニュースではない。
最初の頃は、そういう悲しいニュースに傷つきうちのめされ、かなり精神的に落ちることが多かった。が、最近は少しずつそういうニュースに翻弄されないでいられるようになってきている気がする。

でももしかしたら、いつかまたネガティブの渦に落ちてしまうことがあるかもしれない。だから、忘れないように私の指針を記しておく。これは、あくまでも私の主観的な見解

客観的事実なのか、誰かの主観的な見解か

揺るがない事実として、春馬くんの真実が本人の口から語られることはもう無いということだ。もし、春馬くんに近い人がなにかを証言したとしても、それは春馬くんの真実ではないし、本当の春馬くんの気持ちでもない。あくまでも、その人から見た、その人の解釈した春馬くんなのだ。合っているかもしれない、でも違っているかもしれない。確かめようがない。

ちょっと話は逸れるが、今朝私が春馬くんを想って涙しているところを、不覚にも夫に見られてしまった。その後、なにも聞かずすぐ出勤してしまった夫は、私の涙をどう解釈しただろう。まさか、私が春馬くんのことを考えて泣いているとは、つゆほども思っていないだろう。おそらく、ここ数日家庭内で起きているちょっとした懸案事で悩んでいると思ったか、はたまた病気を患っている私の父親のことを心配して泣いていると思ったか。
もし、今私がこの世を去ったら、夫は周囲の人に話すだろう。「最近、懸案事で相当悩んでいたようだ。泣いているのを見た。」と。

誰かのフィルターを通して語られることは、どうしたってその人の主観による見解だ。ひとは見たいように何かを見て、その人の知っている情報からしか解釈できない。

その不確実なもの。それに私は傷つけられているのか。
なんだか理不尽な気がした。だから、私は、春馬くんのニュースに触れた時にある基準で判断することにした。
それは客観的事実か、それとも誰かの主観的な見解か。

例えば
・セカンドシングル『Night Diver』プラチナ認定
・『天外者』第94回キネマ旬報ベスト・テンで読者選出日本映画監督賞、読者選出日本映画ベスト・テン1位受賞。
・『天外者』多くの映画館で上映延長、再上演
などのニュースは、客観的事実だ。誰が見ても、ほぼそういう結論に達することだからだ。私はそれを信じてもいいことにしている。

一方
・誰かが語る「悩んでいたようだ」
・誰かが語る「おかしいのではないか」
・誰かが語る「もめていたようだ」
など、これらは誰かのフィルターを通したその人の主観的な見解だ。不確実な憶測。それが真実かどうかはわからない。信じたい人は信じてもいいけど、信じたくない人は信じなくていい。つまり、私たちは信じないということを選ぶことができるのだ。

どういう存在として見ていきたいのか

先のnote記事に書いた、春馬くんについての私の見解。

優しくて、純粋で、清らかで、思いやりに溢れてて。謙虚で、真面目で、一生懸命で。

これらは、前述の例でいうと誰かのフィルターを通した解釈、主観的な見解ではないか、とそう言われるだろう。
その通り。人物像と言うのは、概ね誰かの主観的な見解を通して出来上がっているものだと思う。だから、信じられない人は信じなくていい。でも、敢えて私が信じると選び取ったものだ。不確実なものではあるかもしれないが、私が信じると選び取った誰かの語った春馬くんの賞賛や神エピソードなどには、根底に強く明確なものが流れている。それは、その人の春馬くんに対する”好意”というものである。正しいか間違っているかではなく、”好意”というのは魂と繋がっている直感的なもの。"悪意"は真実を歪ませるけど、"好意"は真実を輝かせる。私はそう思う。

結局、30歳で天に召された「三浦春馬」という俳優を、私はどういう存在として見ていきたいのか、それに尽きると思う。

可哀想な末路を辿った悲劇的な俳優か

未来へと続いていく唯一無二の素晴らしい俳優か

自ずと答えは出ている。もう迷うことはない。

光を見ていこう

これからも、巷には春馬くんに関していろいろなニュースが出てくるだろう。もう打ちのめされることはない、と言い切れる程、私は強くない。でも、少なくとも不確実な情報で傷つけられるのはやめたい。私は選び取ることができる。光を見ていくか、影を見ていくか。

私は、可能な限り光を見ていこうと思う。その方が、前述のnote記事にあるような奇跡の瞬間が起こるから。その方が、私の心が優しさで溢れるから。そして、その優しさは、きっとお空の春馬くんに届くはず。

7回目の月命日に想う。






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