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高校生の心理は難しい〜展覧会に触発され橋本治著「桃尻娘」を再読

先日、神奈川近代文学館で開催中の「帰って来た 橋本治展」について書いた。展覧会を観たら、無性に「桃尻娘」(ポプラ文庫講談社文庫電子版)を再読したくなった。

本作は1977年小節現代新人賞佳作となった、橋本治のデビュー作である。展覧会の掲示・プログラムには、<「野坂(昭如)が賞めてたよ」と友人に選評を聞かされて、心ひそかに「ザマアミロ」と言って泣く。>と書かれている。

当時高校生の私は、同じ世代が主役となる小説が出たと飛びつき、以来橋本治という人をフォローした。

あらためて本書を読んだ感想は、「読みにくっ」である。「桃尻娘」は、榊原玲奈を始めとする、高校生たちを語り手にした連作短編集である。第一作は表題作「桃尻娘」で、語り手は榊原玲奈で、その大部分は彼女が自分の気持ちの吐露が書かれる。

男女の違いはあるとはいえ、本書を読む上では私の頭の中は、かなりの時点修正が必要で、それが「読みにくっ」の理由だと思う。高校生の頃に読んだ時は、そんなことを感じた覚えはない。

さらに難しいのは、高校生の男は“バカ“であり、女子は圧倒的に思索的である。榊原玲奈は、“今どきの“女子高生だが、その知性を隠すことはどうしてもできない。これは、橋本治に通じるところである。

それに比べると、磯村薫はルックスは良いのかもしれないが、なんとも頼りがない。木川田源一はゲイなので、中間的な存在である。そして最後に登場する醒井凉子は、榊原玲奈とはまた違う次元の、謎の女である。(ふと気がついたのだが、マンガ家“山岸凉子“と同じ名・漢字にしているのは、なにか意図があったのだろうか。

こうして主要登場人物をレイアウトすると、40年以上前に登場したこの作品が、現代の高校生の構図とあまり違いがないようにも感じ、使用されている一部の“若者言葉“を今のそれに置き換えれば、全く違和感がないのではないだろうか。

こう考えると、「桃尻娘」は橋本治のデビュー作にして、“古典“としての性格を備えており、その世界が続編により発展し、今も読み継がれている理由がよく分かる気がするのだ〜そして多くの読者が榊原玲奈らの“それから“を求め、1983年「その後の仁義なき桃尻娘」が発表される



なお、「桃尻娘」は初版の後、いくつかのバージョンが世に出た。ポプラ文庫の表紙はさべあのま、講談社文庫版は高野文子と、私の好きなマンガ家が起用された


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