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尾上松緑が講談を立体的に〜十二月大歌舞伎「俵星玄蕃」で見えたもの

昨年、尾上松緑が神田松鯉らの協力を得て、講談赤穂義士伝の一つ「荒川十太夫」を歌舞伎化した。その舞台は見逃したが、先日松鯉先生の講談で聴いた

今年は、赤穂義士外伝から「俵星玄蕃」を歌舞伎座で初演する。こちらも神田松鯉・伯山が協力している。

荒川十太夫は、それほど有名な名前ではないだろうが、俵星玄蕃は一定年齢以上の人は三波春夫の歌で知っているのではないだろうか。また、落語協会会長の柳亭市馬は、落語家ながら歌をメインにした興行も行い「俵星玄蕃」は十八番、CDまで出している

松緑は、講談や浪曲歌謡にもなった、俵星玄蕃と赤穂浪士との関わりを描いたエピソードを、歌舞伎座「十二月大歌舞伎」の舞台にかけた。予約もできるようになった幕見席で私は観た。

俵星玄蕃は、四八人の赤穂義士の一人ではない。主君の仇を討つという明確な目標を持つ赤穂浪士とは違い、槍の腕は抜きん出ているものの、人生の目標を失い、酒に溺れる侍である。

日に日に、赤穂義士の影を感じている吉良上野介の側近は、吉良邸の警護を強化しており、玄蕃をその一員として召し抱えようとしている。そんな玄蕃の元にやってくる出入りの蕎麦屋、実は赤穂義士の杉野十平次。蕎麦屋の本性を知らないながらも、玄蕃と杉野の語らいは化学反応を起こす。

主君の仇討ちを遂げようとする赤穂義士のリーダー、大石内蔵助について、俵星玄蕃は「なるべきおのれになろうとしている」と尊敬するとともに、自身の状況を苦々しく思い、その気持ちを蕎麦屋に吐露する。

「忠臣蔵」という名前に表れているとおり、この物語のメインテーマは“忠君“、本心を隠しつつ準備を進め、身を賭して本懐を遂げようとする義士の姿を通じ、“義に生きる“武士のあるべき姿を表現したものだと思っていた。しかし、膨大な数が残された、講談の赤穂義士伝には様々な側面がある。神田伯山は兄弟子愛山からそのテーマは“別れ“であると教えられている。

そして、この「俵星玄蕃」は“自己実現“という命題をクローズアップした。なるほど、赤穂義士伝あるいは忠臣蔵は、“忠君“といったコンセプトがさほど通用しなくなった現代においても人気を博した。その理由の一つは、これが“自己実現“の物語だったからなのだ。この日の舞台を観て、そんなことを感じた。

人の人生は、“なるべきおのれ“を探す旅なのかもしれない。しかし、“なるべきおのれ“など見つけることは容易ではない、つまり俵星玄蕃と同じ境遇である。故に、赤穂義士のような目的をはっきり持ち、それに向かって進む人間を応援する、同時に自らを振り返る。

舞台のクライマックスは元禄一五年十二月十四日、吉良邸への討ち入りの場面である。山鹿流の太鼓が打ち響く中、内蔵助の息子、大石主税が「なるべくおのれになる」と宣言し屋敷へと向かう。屋敷の外に立つ玄蕃、吉良方の加勢にやってきた侍らと立ち回り、赤穂義士が本懐を遂げられるよう助けるのだった。玄蕃の“自己実現“の一つになったのだ。

年明けの一月、新春大歌舞伎で尾上松緑は「荒川十太夫」を再演する


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