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放送法が求める「政治的公平」とは(その3)〜私たちに求められていること

(承前)


一連の動きは、総務省の官僚が首相補佐官のリクエストに応じて準備したものである。彼らは、問題を十分に理解し、首相補佐官対応に苦慮しながらも、政府側の暴走を止めようとしていたようには見える。

また、安倍氏周囲にも良識ある人々が、動きを阻止しようとしていた。総理の判断の前段階、2月18日の時点における、総務省と山田真紀子総理秘書官(当時)とのメモが面白い。なお、山田氏は総務省出身、「飲み会を絶対に断らない女」として、メディアを一時賑わせた人物だ。彼女は、本件を主導する総理補佐官について、<総務省としてここまで丁寧にお付き合いする必要があるのか疑問>、<変なヤクザに絡まれたって話>とし、こうした動きで<民放にジャブを入れる>のは、<視野の狭い話>、<政府がこんなことうしてどうするつもりなのか>、<どこのメディアも萎縮するだろう。言論弾圧ではないか>と発言している。誠にもっともで、3月に安倍氏に対しても同趣旨の説明・抵抗をしたようだが、国会答弁につなげていく案について、<総理は意外と前向きな反応>だった。

2月18日のメモには、山田秘書官のこういう発言もある。<だいたい問題になるのは、「サンデーモーニング」「ニュース23」「報道ステーション」だろうが、国民だってそこまで馬鹿ではない>。私は、様々な報道があるが、それをすべて鵜呑みにするほど、国民は馬鹿ではないという趣旨だと解釈する。

逆に取れば、国民の判断する力が鈍り、報道を盲目的に信用するようになると、政治はそこにつけ入り、介入の糸口を巧妙に見つけ出すということである。我々は馬鹿であってはならない。

私は、報道の自由は極めて重要であると考える立場であり、政治の介入など決して許してはならないと考えている。一方で、本件で改めて問われているのは、観る側の判断力であるとも思う。報道される内容を読み取る力、“行き過ぎた“報道を見抜く力がなくなればなくなるほど、政治は報道に介入してくるのである。

その為にも、一つのメディア、一つの報道に頼らず、様々なニュースソースをもとに判断する力が求められるのだと思っている。

それにしても、そもそも2015年の高市答弁に対して、メディアはどう反応したのだろうか。私には、騒ぎになっていた記憶がない。“行政文書“は公開されていなかったが、答弁だけを切り取っても、かなりインパクトのあるもののように見える。放送局は、まさしく萎縮してしまったのだろうか。新聞はどのように報道したのだろうか。

そのことも、とても気になる




今朝、昨日のTBS「報道特集」を見ると、本件をわかりやすくまとめていた。2016年には、衆議院予算委員会で、安倍氏・高市氏がさらに踏み込んだ答弁も行っていた。その最後に、放送法に詳しい川勝弁護士が、放送法の趣旨は政府が放送局を取り締まるものではなく、放送局に対し政府が保障すべきことを規定することだとする。さらに、今のメディアの在り方について、「みんな委縮して忖度して自己規制しているのでは? メディアは国民の知る権利に奉仕するために存在しているということ。それを忘れないでほしいということに尽きる」と話していた。

メディアが我々のために真実を伝えているか、政府がそれを妨げようとしていないか、監視するのは我々である





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