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映画「アントニオ猪木を探して」〜“迷わず行けよ“を実践した男

神田伯山がラジオ番組「問わず語りの神田伯山」で、自身も参画したドキュメンタリー映画「アントニオ猪木を探して」を紹介していた。

私の中のアントニオ猪木、それは小学生時代まで遡る。実家にカラーテレビが導入された時、祖母が言ったのは「絶対にプロレスはつけないこと」。赤い血の色が嫌だというのだ。 私がまさしくプロレスを自主的に見たくなっていた頃である。仕方なく、カラーテレビがある茶の間を離れ、古い白黒のテレビで見ていた。

当時は、日本プロレスにジャイアント馬場と猪木が在籍、子供の目からも馬場が上、猪木が下という序列であったが、私も含め子供の間の人気は猪木が絶大だった。スタイルの良さ、コブラツイストなど、繰り出す技に技術が感じられた。“卍固め“の名称は、テレビで公募され決まったが、それもよく憶えている。

1972年、アントニオ猪木は馬場と袂を分かち、新日本プロレスを設立。実現しないと考えられていた、日本人レスラー同士の対決を、ストロング小林、大木金太郎らとくり広げ、私は熱狂した。

その後、猪木は異種格闘技戦を開始、そのハイライトは1976年のモハメド・アリ戦。後年、猪木がプロレスの地位向上に執念を燃やしていたことが背景にあったことを知るが、当時の私はやや冷ややかに見ていた。スタン・ハンセンやビル・ロビンソンらとのプロレス名勝負を好んでいた。

大学入学で上京後、蔵前国技館でアントニオ猪木対ハルク・ホーガンのNWFヘビー級選手権を観戦した。ネットで調べると、1980年5月23日だったようだ。大学入学の年である。この時は、猪木が勝利するが、その後立ち上げたIWGPの決勝戦では、1983年同じ蔵前で猪木はホーガンに劇的な敗戦を喫する。

思えば、あの敗戦の頃から私の興味はプロレスから離れていったように記憶する。そんな風に、自分の中の“アントニオ猪木を探して“を行いながら、この映画を観た。

映画は、戦後の日本からブラジルに渡り、必死で生きていこうとした猪木の軌跡をたどるところから始まる。そして、猪木寛至、アントニオ猪木と関わりがあった人々の証言が登場する。オカダカズチカ、藤原喜明、藤波辰爾、棚橋弘至。神田伯山は、猪木がマサ斉藤と死闘を繰り広げた巌流島で、その状況を語る。それぞれの記憶に残る、アントニオ猪木を探す作業である。そして猪木を撮り続けた辻悦生。

登場するそれぞれの人の中に、違った顔のアントニオ猪木がいる。映画は言葉とともに、様々な猪木の姿を映し出す。

アントニオ猪木は「マンネリを嫌った」という言葉が印象に残っている。プロレス団体立ち上げ、異種格闘技戦、さまざまな事業、そして国政への進出。 猪木は常に新しい姿を観衆の前に提示した。改めてその流転し続ける人生を見ると、アントニオ猪木という人を“探す“ということの難しさに気がつく。

「迷わず行けよ 行けばわかるさ」というのは、猪木の名言だが、それを体現した。人質解放に向けイラクに乗り込んだ猪木参院議員、そしてキューバのカストロとの会談のエピソードには、その行動力に心が揺さぶられた。本当に“なんでも“やった人なのだ。

猪木という人間のカケラでも感じとろう。まさしく映画は「アントニオ猪木を探して」なのだ


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