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“町中華マンガ“の王道〜古谷三敏「寄席芸人伝」

「町中華」などという言葉が無かった頃、町中華には大抵マンガや雑誌が置いてあった。種類はさまざまで、店主の好みが反映されていたのだと思う。

コロナ禍など想像もしなかった時代、注文が出されるまでの間はスマホを見ることはなく、来店客のほとんどはマンガや雑誌を読むか、あるいは所在なげに店内に置かれたテレビを眺める。

マンガは単行本が並んでいる店もある。そこで読むマンガは人それぞれだが、最もフィットするのは1話完結型の作品であり、これらを“町中華マンガ“と呼び、その三羽烏(思いつきだが)は、さいとう・たかを「ゴルゴ13」、水島新司「あぶさん」、石ノ森章太郎「HOTEL」。いずれも、安定的な面白さを提供してくれる。作者は3人とも鬼籍に入ってしまった。

この三羽烏とは少し系統の違う、ソフト路線とも言えるのが、やはり昨年他界した古谷三敏の遺作「Bar レモン・ハート」であり、「寄席芸人伝」だ。どちらも“町中華マンガ“の王道で、これらがあると、私は喜んで手に取るだろう。

古谷三敏は、赤塚不二夫のスタッフを経て、1970年、少年サンデー連載の「ダメおやじ」で世に出る。まだ、“父親の威厳“というものが存在していた時代である。“バカボンのパパ“に続いて、より現実感のある“ダメおやじ“の登場は、強く印象に残っている。

そして、1978年からビッグコミックで連載されたのが、「寄席芸人伝」である。 私の好きな世界を描く、“町中華マンガ“、数年前から再読していた。

“町中華マンガ“は、家で読む場合もシチュエーションを要求する。それは、決して「よーし、マンガを読むぞ」といった状況ではなく、晩酌を終え、ウィスキーに移行し、「寝る前に、マンガでも読むか」といった気楽な状況でなくてはいけない。

1回に読むのはせいぜい1話か2話。必死になって読み進むものではない。毎日の日課にするわけでもなく、思いついた時に読む。酔った頭で読み、内容が記憶に残らなくとも、“町中華マンガ“の場合、問題はない。気にせず、翌日続きを読めば良いのである。

こうした条件・スタイルにベストなのが、古谷三敏「寄席芸人伝」なのだ。

「寄席芸人伝」は、落語関連、芸能関連の本で読んだことがあるようなエピソードが、架空の登場人物の話に置き換えられて描かれている。ベースにあるのは、落語を始めとした寄席演芸の世界に対する愛情であり、そこで生きる人々の人生である。

気分よく少しずつ読み終えていった「寄席芸人伝」、全11巻が終盤にかかった頃の、昨年11月、古谷三敏の訃報が流れた。それでも、ペースを崩すことなく、時々ページをめくっていた。

それが、先日、遂に読み終えてしまった。さて、また最初から読み直すか、「レモン・ハート」を買い込むか、“町中華マンガ“、私の生活に必要なモノである



と書いた後、ランダムに取り出した第5巻の冒頭、第57話“イロノーぜの柳太“。主役の落語家、春風亭柳太、高座に「大仏餅」をかけたところ、登場人物の名前が出てこない。これは、昭和の名人、八代目桂文楽のエピソードから引いている。文楽は最晩年、同じ状況となり、「勉強し直して参ります」と語り、噺を終えた。それが、彼の最後の高座となった。

「寄席芸人伝」の柳太、ネタを変えたり、少ない客前で演じたりしても、話がつかえて出てこない。師匠が分析する。<柳太は上手い、若手随一だとみんなが言ってくれる>、それがプレッシャーとなり、<あいつを締めつけてたんだ>。

師匠らの配慮で、温泉でノンビリ休養を取る柳太。偶然、大学受験に失敗し自殺しようとする学生を助け、東京に連れ帰る。そして、その学生を寄席に呼び、「こんにゃく問答」という馬鹿馬鹿しい話を聞かせ、元気づけようとする柳太だが、人助けに必死で、自分が悩んでいたことなど忘れている。

つかえることなく、高座を終えた柳太に学生はお礼を言い、柳太自身も自分の問題が解決したことに気づく。“情けは人のためならず“、多くの落語演目がテーマにしている。

上島竜兵、私と同い年、その悩みを払拭する何か、自死を阻む何かがあれば。。。。



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