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ローリング・ストーンズ伝説のライブが正式リリース〜「ライブ・アット・エル・モカンボ」(その2)

(承前)

キース・リチャーズの自伝「LIFE(邦題:ライフ)」を読むと、「ラブ・ユー・ライブ」、エル・モカンボでのギグの頃の出来事は、キースとストーンズの将来に大きなインパクトを与えたように見える。そこで、印象に残った箇所を記す。

1975年の秋、ローリング・ストーンズは、キース・リチャーズの住むスイスで、アルバム「ブラック・アンド・ブルー」に取り組んでいた。そして翌年3月、スイスのジュネーブで、キースとパートナーのアニタ・パレンバーグの間に、3人目の子供が生まれる。男の子で、タラと名付けられる。

ちなみに、女優/モデルのアニタは、元々ブライアン・ジョーンズ(1969年死去)の彼女で、ストーンズに一定の影響を与えたと言われている。

1976年4月、生まれたばかりのタラと、長女のアンジェラをスイスに残し、キースは6月まで続く欧州ツアーに出る。当時、アンジェラとキースは立派な麻薬中毒者となっており、お互い一定の距離を置き生活していた。アニタの興味の中心は麻薬であり、ツアーに同行することもなくなり孤立していった。

キースは、7歳の長男マーロンをツアーの同行者として連れて行く。自身の車で移動していたキースにとって、マーロンは道先案内人の役割を担った。

キースは書く、<ショーに遅れることはそれほど頻繁ではなかったし、すっぽかすこともなかったけれど、遅刻した時はとてつもなく遅れた。そして、そんな時は大抵スゴいショーとなった>(原文版を読んでいるので、拙訳)。 70年代、開演時間はバンドが登場した時、観客も夜通しいることを厭わなかった。

遅刻の理由はキースの寝坊。彼が枕の下にピストルを置いていることを知っている周囲は、起こされて不機嫌なキースに撃たれることを恐れ、息子のマーロンをキースのもとに差し向ける。

同書にはマーロンの証言が記載されているが、これが素敵である。マーロンは目覚まし役のみならず、キースにまとわりつく人々への対処法も習得する。マーロン曰く、<彼らを追い払うことにも慣れていった。言ってやったのさ、「お前たちのこと見たくない、どっか行っちまいな」って。キースも、彼らを排除するために、「マーロンを寝かしつけなければいけないから」と言ってた>。

マーロンは、ミック・ジャガーの思い出も語る。ドイツのハンブルグで、キースが寝た後、ミックがマーロンを部屋に呼ぶ。そして、ハンバーガーを食べたことのないマーロンの為に、ルームサービスで注文する。ミックはマーロンに、<「マーロン、ハンバーガー食べたことないだろ? ハンブルグではハンバーガーを食べなければいけないよ」>。

キースはマーロンにいつも本を読み聞かせた。フランス語で書かれたマンガ「タンタンの冒険」や「アステリックス」が好みだったが、キースはフランス語が分からないので、自分で話を作って聞かせていた。数年後、マーロンは、キースが全く内容を分かっていなかったことに気づく。

そんなツアーだったが、キースはパリでのコンサート直前、生後2ヶ月を過ぎたばかりの次男タラが、ベビーベッドで亡くなっていたという知らせを聞く。コンサートをキャンセルするか、キースは<それは考えうる最悪の事態だろう。だって、俺には他に行くところはないんだから>。キースにとってできることは、一緒にいる長男マーロンを守ること。その為にもステージに立ち、その後のツアーを、マーロンと共になんとかこなすことだった。

死因について、キースは<呼吸不全だと思う>と書いているが、キースは<新生児を置いてきたことについては、自分を許すことはできない。俺は自分の役割を放棄したようなものだ>と書いている。
(子供を失う悲しみを経験したキースは、後にエリック・クラプトンが4歳の息子を事故で亡くした際、悲しみの克服を体験した立場から、クラプトンに手紙を送る)

欧州ツアーは終了、キースとマーロンはアニタと共にロンドンで暮らし始めるが、アニタの精神は不安定であり、愛する女性への対応、子供の保護、キースの生活は平穏とはほど遠い状況で、そんな数ヶ月間を過ごした先に待っていたのが、トロント、エル・モカンボでのシークレット・ライブだった。

1977年になり、リハーサルをすべくトロント入りしていたストーンズのメンバーから、予定日を過ぎても現れないキースに電報が届く。“どこにいるんだい?”

キースはロンドンにいたが、トロントに向け動き出す。しかし、その道のりは簡単ではなかった 。

続きは明日



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