見出し画像

映画「コーダ あいのうた」〜肉体的ハンディキャップに対する“共感“

「コーダ あいのうた」は、各所から賛辞を聞いていたが、映画館まで観に行こうとは思っていなかった。理由は、なんとなく内容が予想できると思ったからだ。

アカデミー賞の作品賞候補になってたのも認識していたが、予想される内容からすると、受賞は難しいようにも思っていた。

結果、オスカーを獲得、「それならば観ておこう」と映画館に行った。映画に対する本質的な評価と、映画賞の受賞は関係がないということはよく理解しているが、こうして背中を押す効果があるのは、賞の持つ悪くない影響である。

聾唖者の家族の中で、一人健常者として育った高校生のルビー(エミリア・ジョーンズ)が主役の青春映画である。こう書くと、予想できる内容の映画であり、その認識は“大枠では“間違っていなかったと思う。

ただし、この映画を特別なものにしているのは、聾唖者の家族をもう一つの中心におき、彼らへの“共感“、“エンパシー“を見るものに抱かせることである。

何故、アカデミー会員は、この映画を選んだのだろう。あまり意味のないこととは思いながら、考えを巡らせた。

オリジナリティ(「コーダ」はフランス映画のリメイクである)、映画技術においては、「パワー・オブ・ザ・ドッグ」や「ベルファスト」の方が、私には上に思え、その社会性においては3作ほぼ同列である。

「パワー・オブ・ザ・ドッグ」で描かれた、LGBTQなどに象徴されるダイバーシティについて、あるいは「ベルファスト」が社会の分断や争いというものについて、私自身は一定の“共感“を持っているつもりである。

一方で、障がい者に対しては、どうだろう。世の中全体としては、どれほど“エンパシー“を持っているのだろう。確かに、バリアフリーなどのインフラは整備され続けている。しかし、本質的な部分についての理解はどの程度進んでいるのだろう。

「コーダ」は映画として純粋に素晴らしく、気持ち良く映画館を出ることができる作品である。アカデミー会員は、それに加えて、“何か“を評価して投票したように思う。その“何か“は、肉体的なハンディキャップに対する“共感“のように思われる。

なお、この映画でジョニ・ミッチェルの名曲“Both Sides, Now"が重要な役割を持つ。明日は、ジョニ・ミッチェルのこと



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?