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「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」〜スコセッシ監督はさすがである

マーティン・スコセッシ監督の新作映画「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」を観た。

ネイティブ・アメリカン、オセージ族の居留地で起きた不可解な怪死、映画の原作はデイヴィッド・グランがこの事件を書いた同名の書、「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)である。

ネイティブ・アメリカンは、花が咲く五月の満月を“Flower Moon“と名づけたそうだ。そして、上記の本の冒頭にはこうある。

<五月、不気味なほど大きな月の下でコヨーテが遠吠えする頃になると、ムラサキツユクサやブラックアイドスーザンといった丈の高い草が、小花にしのび寄り、光と水を奪いとる。小花の首は折れ、花びらは落ち、やがて地に埋もれる。それゆえ、オセージ族は五月を「花殺し月(フラワー・キリング・ムーン)」の頃と呼ぶ。>

主演は、長年に渡りスコセッシ監督とタッグを組むロバート・デ・ニーロ、そして2013年の「ウルフ・オブ・ウォール・ストリート」以来のスコセッシ作品主演、レオナルド・デ・カプリオ。

スコセッシ監督は、2019年にデ・ニーロ主演の「アイリッシュマン」を発表したが、コロナ禍で劇場公開は限定的、私もNetflixで観るしかなかった。したがって、通常通りの劇場公開作品としては、2016年の「沈黙ーサイレンスー」以来となる。

「沈黙」が2時間40分、「アイリッシュマン」は3時間半と長尺傾向にあるが、本作もほぼ3時間半。ちょっと、身構えたが、流石にスコセッシ、まったく長さを感じさせない見事な作品だった。特に後半の静かな緊迫感は素晴らしいものがある。

オセージ族の居留地から石油が発掘される。突如として豊かになる彼ら、そしてそれに群がってくる白人たち。デ・ニーロ演じる、ウィル・ヘイルはオセージ族と信頼関係を築き、地元の有力者となっている。彼を頼って来るのがウィルの甥アーネスト(デ・カプリオ)。彼は、オセージ族の娘モリー(リリー・グラッドストーン〜オスカー狙えるのでは?)と恋に落ちる。一方で、この地は不審な空気が漂う。

アメリカにおける“欲望“というものは、プラスの面とマイナスの面がある。フロンティアを拡大するという“欲望“はイノベーションを起こしポジティブな影響をもたらすのだが、超過利潤に対しては寄生虫のように集まる人もが出現する。“欲望“が“貪欲〜Greed“に変化し、その方向がお金に向かうと歪みが生まれる。また、そうした行為と一線を画する人、バンドワゴンに乗り遅れた人達は取り残されてしまう。富めるものは司法を含む公的な権力まで支配し、格差を広げていく。

このドラマは、その一つの縮図のようにも見える。

映画の終盤、マーティン・スコセッシ自身が登場するのは、愛嬌だがちょっと感動的でもある。音楽を担当したのは、ザ・バンドのロビー・ロバートソン。ネイティブ・アメリカンの地を引く彼の音楽が、静かに映像を支える。残念ながら今年の八月に他界、彼に対する献辞が映画から現実へといざなってくれる。

最後のシーンを観ながら、アメリカの良いところを感じた。上記の通り、社会の発展には必ず影の面がある。その暗黒面にしっかり向かい合い将来に生かす、アメリカという国がここまで持ちこたえてきた一つの美点である。

その点は、日本も見習う必要がある

蛇足だが、3時間半の長さを感じたことが一つだけある。それは、途中トイレに立つ人が結構いたこと。背後に座った男性は、始まる前から「ここなら迷惑かけずにトイレに行ける」と話していた


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