掌編小説【マスク式】




                     400字詰原稿用紙16枚程度

 学生時代の地元だった繁華街に寄り道をした。新型コロナウイルス感染症の流行を挟んで約6年ぶりの街は、やはり寂れてさみしい感じがする。

 私も観てもらったことのある辻占いの小さな露天の卓はそのままだった。しかし背後の看板に「観相術」と大書された下にあったはずの「顔面相」の文字がない。併記されていた「手相」はそのまま残っているから人相鑑定だけやめてしまったのだ。

 実はここの占い師のおばさんに観てもらい、3ヵ月以内に将来の伴侶になるたいへん美しい女性が現れるとのありがたきご託宣に大喜びしたものの、その後半年ほど経ってもなんの変化も訪れず、これで3000円は高いではないかと文句のひとつもいってやろうと再び卓の前に立ったところ、おばさんは私の姿を認めるなり

「あんた、顔が変わったわね」

 とひとこと、見事な返り討ちにあったことがある。そのようして日々タチの悪い客や酔客をさばいてきた海千山千のおばさんである。よもや私の冷やかし半分の占いを外したことが原因で人相鑑定を辞めてしまったわけではないだろう。

 ざわめきが聞こえたので振り返ると、黒っぽいカーディガン姿の女の子が猛烈な勢いで走ってくる。その後ろで叫んでいる縦縞シャツの男はコンビニエンスストアの店員に違いない。万引きだろう。

 なんと厄介なことに女の子の茶のチェックのスカートが勤務先の高校の制服によく似ている。しかし大きな白いマスクをしているので真横を通り過ぎても顔は見えない。

 ウチの学校の場合にはマスクにも指定があってみな同じものを着けているから、もし仮に監視カメラに捕らえられたりなどしてウチの学校の生徒ではないかと目星をつけられても、これだけでは個人まで特定することはできない。逆にいえばそこのところが学校としては逃げ道になる。

 常識的に、夜10過ぎの繁華街に県内屈指のお嬢さま学校、わが聖光輝女子学院の生徒が出没するとは考えられない。教職員室では醜いパワハラ、セクハラが渦巻いているにしても、清廉で家庭と社会に献身奉仕する明朗な女性の育成に怠りなく取り組んでいるのだ。

 その教育の効果というわけでは決してなく、富裕でおっとり育ったおかげでウチの学校の生徒たちは、夜遊びするよりはもう少し子どもだと思う。

 学校のことを考えると疲れが一挙に押し寄せてきて足が前に進まない。とくに私のような若い教職員にとっては黒色無双といっていいくらいの過酷な職場で、月間残業時間が200時間を超えるなどということもしばしばある。それでも頑張ってしがみついているのは、どこかの研究機関に推薦されるのに有利、かもしれないという期待を抱いているからだ。

 このあたりをうろうろしていてもロクなことはないようだし、どこの店に寄るでもないまま帰宅することにする。

 出産のために妻が帰省しているあいだ、夜の街の徘徊のほかにやっておきたいことがもうひとつある。アダルトビデオの心おきない、心ゆくまでの鑑賞だ。拍手なんぞしながらまみれておきたい。

 独身時代に溜まったDVD、引っ越し用ダンボール1箱分は妻と付き合いはじめたときに処分してしまったので、里帰り中のいまがチャンスとばかりに早速インターネットで数本購入した。しかし仕事に忙殺されて観る余裕がなかった。

 なにしろ帰宅して夜食を済ませるとそのまま気絶するように眠りに落ちてしまう。

 こいつから観よう。モザイク破壊版『実は私、夫の上司に犯され続けています』、出演、山本桜江。

 山本桜江は今回はじめて知った女優だけれども、瓜実顔の落ち着いた和風美人で嫌が応にも期待が高まる。鼻息が荒くなる。それ以上に胸がときめくのは「モザイク破壊版」というフレーズだ。少なくとも私の知っている6年前にこんなイカしたものはなかった。

 そういえばいつだったか比較的最近、AIを使ってモザイク除去をしたアダルトDVDを販売したとして数人の男が逮捕されたというニュースを見た記憶がある。その後は類似の事件が伝えられることもなかったのですっかり忘れていた。

 ところが今回ネットを通して買ったデータ「モザイク破壊版」が本当にそれと同様のものだとすると、すでに暗黙のうちに市民権を得てしまっていることになる。販売にあたって特別な警戒もなかったし価格も通常版と同じだ。

 やはり6年間の進歩は大きい。女優さん山本桜江は嘘偽りなく綺麗で、画面のアングルも画質も素晴らしい。

 男優は昔からこんなに赤黒かっただろうか。みんな北京ダックみたいだ。

 おっと。丸見え。……、だれもなにもいってくれなかったけれども、私の知らないあいだに時代はこんなふうに動いていたのか。

 え。山本桜江の顔付きが変わっていないだろうか。最初のほうに出てきた顔と違って見えるのだが。

 別人にすり替わっているのではなく、それは確かに山本桜江なのだけれども、いくぶん丸く、若くなっている。ビデオ撮影中に整形手術をしてしまうなどあり得ないだろう。ああっと、あれあれ、あんなことまで。

 ちょっと待て、ちょっと待て、ちょっと待て。これ、いま画面で熱演しているのは山本桜江ではなくて私の妻の真奈美ではないのか。

 まさか真奈美か。よく似ている。ああ真奈美。顔だけはよく似ている。

 はじめは山本桜江で途中から徐々に真奈美に変わる。

 そんなことはあり得ない。まずやるかやらないかの判断として真由美がそんな判断をするとは到底思えないし、しなければならない理由もない。もっといえばもうすぐ臨月を迎える真由美にこんなものを撮影する時間などなかったはずだ。

 北京ダックと真奈美の、いや真奈美によく似た誰かのくんずほぐれつを眺めているうち、不倫現場を覗いているような倒錯的気分に襲われてきた。奇妙な激しい興奮にとらわれてアタマに血が上った。

 どのくらい経ったのか、しばらくしたのち我に返り、努めて冷静を取り戻しつつ考えた。

 山本桜江の映像は顔だけが真奈美にすげ替えられている。あまりにも違和感なく合成されているのでうっかりした気分にもなるが、体は真奈美のものではない。

 パソコン上で顔だけをすげ替える技術は、もうそんなに特殊なものでもないだろう。真奈美の顔のデータは、私のパソコンに収納してある過去のいろいろな記念の動画を探せば出てくる。そしてたぶん人物の顔のアップでもっとも数多く保管されている映像を選べばそれは自動的に真奈美になる。

 送られてきたビデオソフトのデータにそれ用、つまり画像検索や画像加工用のアプリを加えておく。ビデオ再生と同時にそれらが起動するようにセットしておく。

 文系の素人考えではできないこともなさそうだけれども、頼まれてもいないのに誰がそんなことをするというのだ。というか、むしろオプションとして別途有料化したほう売れて金になる。うむ。ヒット間違いない。

 同時に買った3本のすべてが、途中から徐々に真奈美の顔になる。

 真奈美には、それでなくても、ふつうのアダルトビデオでさえ隠しもっているのがバレたら大ごとになるだろう。しかるにもしそこに自分の顔が使われているなどという言語道断ななりゆきが発覚すればタダでは済まされない。私がやったことではなくても延々と責め苛まれる。

 しかも「モザイク破壊版」だ。離婚騒動に発展するかもしれない。いやこれ民事訴訟の対象にもなるのではないか。父親は大学教授のお堅い家庭なのだ。

 とはいえ、いざその段階になると完全に消去してしまうのは正直忍びなく、いつも持ち歩いているノートパソコンに移した。

 疲労と睡眠不足と異様な興奮の影響で、私のアタマはすっかり常軌を逸していたのだろうと思う。

 一睡もせずフラつく足取りで学校へ向かい、睡魔と暴言に嬲られ続ける早朝の会議をなんとか生き延び、担任する教室に入って生徒28名の皆がみな同じ大きな白いマスクをし、量産型というのか眉の上で一直線に揃えた前髪の右側に15度くらいの割れ目をつくって座っているのを見た途端、気分が悪くなった。

 こういう匿名性の確保のしかたもあるのだな。

〈お前ら、……。まるでディストピアの子どもみたいではないか。……、相変わらず人を小バカにした目をしやがって〉

 私は無言で生徒に対峙する。

〈よし、いいことを教えてやろう。お前らのそのマスク、三清商会で買うように指示されているな。教材だの制服だの、傘の果てまでみーんな三清商会だ。その三清商会は一般の小売価格に30パーセントも上乗せしているんだぞ〉

〈三清商会はマージン稼ぎのためのペーパーカンパニーで、実質オーナーはわが聖光輝女子学院の理事長さま一族だ。ひでえ学校だな〉

 教室の後方に座っていた1人の生徒が立ち上がった。なにもいわず机のあいだを抜けてこちらに歩いてくる。

 その、大きな白いマスクをした量産型女子はやがて教壇の下に到達し、正面から私を見上げた。

「なんだ。どうした……、」

 思わず後じさりするとその隙にするりと教壇に上がり、無理やり大きく見開いた丸い眼で私を威圧する。

 席の生徒たちはしごくリラックスした空気で身じろぎもせず、私と誰か、マスクに隠れている生徒の誰かを見ている。

「どうした。おまえ誰だ。山下か山藍か、……」

 返事はない。

 私の目の前でゆっくり自分のマスクに手をかける。見ればわかるってか。マスクを外した。

〈口がない!! 口がない!! 口がないだろう!!〉

 鼻の下がのっぺり広く見える。こんな顔つきの生徒がうちのクラスにいただろうか。いるはずがない。こんな目つきの生徒、だ。

〈いったいおまえ、どうしたんだ。そこ、そこに口がないぞ!! 口がないおまえは誰だ。おまえは誰なんだよう〉

 それから私はなにごとか自分でもわけのわからない金属的な裏声を発して仰向けに倒れこみ、意識を失った。

 あとで知ったことだが、私をからかって遊ぶために、あらかじめスポーツのテーピングに使うキネシオテープとドーランで唇を隠していたのだった。

 結局、私たち教職員は生徒たちのオモチャだ。生徒には敬う気持ちなど毛頭なく、冷やかしのネタはないかといつも睨めまわされている。

 恩師とか先達とかいう言葉は思い出すのに苦労するくらいの死語で、まったく住む世界が異なる者同士が、たまたま学校という場所ですれ違っているにすぎない。

 そこでは、私たち教職員は生意気な生徒たちに奉仕する役割を仰せつかっており、コメディアンから使い走りまで、いろいろな奉仕をするためにのみ存在するのだ。

 翌日は体調が芳しくなく休み、翌々日の金曜日にはその体を引きずるようにして出勤した。期末テストの準備があるし、それがどういう理由からであれ欠勤はマイナス査定になる。教職員はいついかなるときにでも直ぐに求めに応じて動ける状態、いつもそこにいる状態でなければならないのだ。

 教室で倒れたときに置いてきたノートパソコンが教員室の自分の机の上に置いてあった。誰かが持ってきてくれたのだろう。

 微妙な空気が流れて小さく潜めた声が「実は私」と呟くのが聞こえた。
 
〈実は私、……〉

 翌日、私は名古屋行きの高速バスに乗った。新幹線で行くより2倍以上の時間がかかるが、目的地の終点に着けば確実に起こしてくれる。それほど疲れ切っていた。

 妻の実家の立派な瓦屋根の前に立つと、そのまま踵を返して逃げ帰りたい衝動に襲われた。

 招じ入れられた洋風の居間の奥、仏間を背にして真由美が1人用のクッションソファに巨大な丸い腹を突き出し、仰向けに座っていた。ピンクの袖付きの肌がけのようなものを羽織って、まるで牢名主のようだと思った。

「わざわざ忙しいのにきてくれてありがとう」

 すっかり地元の訛りが戻っている。

 義母が茶を運びながら「お父さんはもう直ぐ戻ります」といい、緊張が解けないまままた頭を下げながら、やっぱりくるんじゃなかったと悔やんだ。大のおとなの男をやさしく抱きしめてくれるような場所はどこにもない。

 茶菓、懐かしいようないちごのショートケーキもきた。

「マユちゃんの大好物」

 義母が踏ん反り返っている妻の掌の上にガラスの皿を乗せた。私はいないことになっているような気がした。

「こんなん買ってあったのね」

 少女のような甘えた声を出してうれしそうに受け取り、妻がマスクを外した。

〈誰だ。この女は誰だ〉

 驚いてまじまじとその顔を見つめるのを、その女、真由美は婉然と微笑んで返す。

 目元には確かに真由美の面影がある。しかし鼻梁が以前に比べて細い。鼻梁が細くなったぶん顔の中央は長く伸びたように見え、またさらに少し太ったらしい顔の中で鼻が真っ直ぐな線を描いている。滑稽だ。

 私は泣きそうな気分になった。よく覚えていないけれども、さっそくその日の午後、私は東京行きの新幹線に乗せられた。

 日曜日はノートパソコンに移したビデオを観た。そこにいる真由美の顔はさらに少しずつまたツンとしているように見えた。

〈現実と幻、どちらがどちらに寄せているのだろう〉

 覚束ないことを考えているうち、ようやく一昨日の教員室で聞こえてきた「実は私」という囁きを思い出した。

 あれはビデオのタイトル『実は私、夫の上司に犯され続けています』の一部で、誰かが私を嘲笑するために声に出したに違いない。開けば直ぐのところにアイコンはあるから、パソコンの中身を見ようとした者なら丸1日、誰でもそのビデオを観られる状況にあった。

 誰に見られてしまったのかはわからない。しかしあのときの教員室に流れた密やかな雰囲気は、すでにほぼ全員がその餌食情報を共有していると物語っている。

 もう取り返しはつかない。あの量産型の小娘たちにもいずれバレる。血祭りにあげられるぞ。

 もちろん学校も黙ってはいないだろう。県内屈指のお嬢さま学校、わが聖光輝女子学院になんというはしたないものを持ち込んでくれたのだ、と。こういう女性を蔑視する気持で崇高な教育の現場に立ち会えるのか、と。

 たとえつくりものだとしても女の裸体の上に妻の真由美の顔が乗り、ウッフンだのアッハンだのいっているのを学校の同僚連中に見られたと考えるのも堪らない気分だった。

 辞めよう、とそのときようやく、はじめて思った。

 もう辞める。わかったわかったおまえら、辞めてやらあ。ビデオくらいで騒ぐな。おまえらなんかもっとどぎついすんごい変態の観てんだろうによ。

 そう考えると一気に気持が緩み、直後、また深い眠りに落ちた。

 翌日の月曜日は爽快なインディアンサマーだった。辞表を叩きつけて帰る夜には冷え込むだろうが日中の日差しは心地よい。

 今日はホームルームからそのまま担当の現代国語の授業になる。いまのところ生徒たちに変化はない。今後の授業の計画を板書しようとしてホワイトボードに向かうと、どこかから異質な声が聞こえてきた。

 異質なというのは、男の声だ。女子校で男の声は滅多に聞けない。

「私の名前はクラハシモトオ、クラハシモトオ」

 どこから聞こえてくるのかと注意深く耳を澄ますと、口元のマスクが動く。私のマスクだ。マスクの下で私自身が喋っているのだった。

 呆気にとられ、堰を切って溢れ出た奔流をなすすべなく眺めているような気分だった。

「モトモトモッチャン、元も子もありません。ク・ラ・ハ・シ・モ・ト・オ、だから」

 私は山下壮太であり、クラハシモトオはもちろん私の名前ではない。生まれてこのかた私は一貫して山下壮太であり、親戚にも友人にも知人にもクラハシモトオという名前の人物は存在しない。

 クラハシモトオなどいままでに見たことも聞いたこともない。

 目に霞がかかったようだ。教室がざわざわしている。お嬢さまたち、あまり大人をバカにしてはいけないよ。たいへんな目に遭うからね。

 いま、私はクラハシモトオになるところだ。



                              (了)




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