ショートショート 1分間の国 ◎【いろいろ失格】



「それじゃあキミはあれか? 私にこの原稿を引っこめろというのか? そして改めてまったく別の、新しい作品を書けと」


 新宮夕蔵はたるんだ頬を震わせて戸木創を睨みつけた。激昂のあまりか瞳まで潤んでいる。


「私がそんなことを受けるとでも思っているのか?」


「お言葉ですが先生、まことに僭越ながら、いまこのお作品を発表することは先生ご自身にとっていかがなものかと」


 高級そうなオーディオ装置が並ぶ応接間のソファで、新宮夕蔵は不機嫌を隠そうともせず尻をもぞもぞさせた。


「もちろん掲載スケジュールは1号飛ばしていただいてかまいません」


 見上げると新宮夕蔵は横を向いて子どものように膨れている。


 やれやれ、いつまで人気作家のつもりだと腹の底で舌打ちをしながら土下座の首をさらに縮めた。


「ご寛恕のほどぜひともよろしくお願いいたします」


「だからなにが問題なんだ? いまさらだがな、文学は人間を扱う芸術だ。人間のすべてから目を逸らしてはいけない。あたりまえだろう。そしてこんな人間不信の時代だから、そのすべてを恐れず白日の下にさらけ出してやらなければならないんだよ」


「しかし、そこには、そのお考えを広く知らしめるためにも、やはり戦略的にプライオリティを考慮されてしかるべきですし、それなりの秩序、自制や自重もあるかと、……」


 戸木創は目前の埃臭いカーペットに向かってかき口説いた。雑誌や会社の基準というより、一編集者としてここは絶対に折れるわけにはいかなかった。


「そういうことをいっているからいまの惨憺たるありさまがあるんじゃないのか。……キミのところの実売部数ときたら全盛期の10分の1にも満たないじゃないか」


 じゃあテメエは何人ファンと呼べる読者を抱えているんだ、と口から出かかるのを抑えて戸木創はもう一度コメツキバッタのごとく頭を上げて下げた。


「だからだよ。この状況を打破するためには冒険が必要なんだよ。怖がってちゃいけない。一緒に頑張ろうじゃないか。なんなら私も編集長にかけあってあげてもいいから」


 新宮夕蔵のさも偉そうないいぐさを聞いて、戸木創の頭は沸騰した。


 一緒に頑張ろうじゃないか、だと? いままでテメエの作家としての地位を築くためにどれほど骨を折ってきたと思っているんだ、知らないわけじゃあるまい?


「先生。最後にもう一度だけお願いします。どうしても書き直していただくわけにはいきませんか?」


「しつこいなあ、キミは。とにかく原稿はここに置いておく。さっさと社にもって帰ってくれ」


 新宮夕蔵は立ち上がりドアの向こうに消えた。お帰りだよ、という声が聞こえた。


「玉稿、拝受いたしました」


 仕方なく原稿をバッグに収めた戸木創は会社に戻る電車のなかでそれをもう一度開いた。それはこんな内容だった。


  —— ある妙齢の美女が外出の途中で急に便意を催した。それはいつもとは異なりいつまでもおさまらず、逆に徐々に、どこまでも激しさを増していった。さらにあいにくなことに、安心して使用できるようなトイレもなかなか見つからない。


 やがて女性は髪を乱し、奥歯を噛みしめ、脂汗を流しはじめる。早足で歩きながら尻、肛門に力を込めて必死の思いで我慢する。しかし便意はますます昂ぶるばかりで腹の痛みはもはや拷問にも等しい。


 帰り道の、駅前通りのここで並木の根元にうずくまって用を足してしまうことができればどんなにか楽か、と夢想するけれども、そんなことができるはずもない。


 便意を紛らわせられるものなら大切な長い髪の毛をひきむしってもいい。このままでは直腸が爆発しかねない。


 震え、伸び縮みする体をなんとかなだめ抑えつけながら息も絶え絶えにヨタヨタと進み、家の門が見えるところまでなんとかたどり着いた。


 ここからはついに最終の体勢、中腰でそろりそろりとすり足になるのもやむなく、家のドアまでようやく、ついにたどり着く。やった!! 助かったどー!! 歓喜がこみ上げた。


 しかし、だがしかし!! 家に入るための肝心の鍵がない!! ショルダーバッグの内ポケットにいつも入れてあるキーホルダーごとない!! 上着のポケットにもコートのポケットにも、どこにもない。ないないない!! ないないないないないないっ!!


 家の者はあいにく出払っていて留守なのだ。鍵が見つからないということは、そこに馴染みの居心地のいいトイレがあるというのに、ここまで耐えに耐えてきたのに、使えないということだ。


 妙齢の美女はクウクウと喉を鳴らして悲鳴を押し殺しつつ、ドアノブも壊れよとばかり激しく捻りあげる。しかし頑丈なドアノブは全身全霊をもってしても音さえ立てず、ついに女性はどうしようもなく、嗚咽を漏らして両手を広げ、玄関ドアにすがりつく。そしてそれからゆっくりと崩折れていった。


 —— 読み終えた原稿をバッグに戻して、戸木創は両掌でゴシゴシ顔をこする。


「クソッ」
                            (了)



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