ショートショート 1分間の国 ◎【たとえば暮らし】



 いつもぼんやりしているように見えるらしい私は、お花畑だとか昼行灯だとか、陰でいろいろとバカにされているようだ。それはそれでまんざらでもない。こんな世の中に一所懸命に適応しようとして必死に生きていることのほうがよっぽどおめでたくはないか。


 私はいまや人間の種としてのバランスに貢献する希少な存在なのだ。


 そしてこんな立場を標榜していると友達も少なく、必然的に暇になるので、よく考えごとをする。〈たとえば〉からはじめる。


 〈たとえば〉世界中が平和になり、貧富の差も解消されて、すべからく人々が幸福な世の中になったらどうだろう。


 ユートピアではあるけれども、悲しいかな人間は必ずその次のことを考える。金に困っているわけではないけれども隣の人より少しは多くもっていたい、とか、綺麗な服を着たい、とか。もっと遠くへ行きたいとか長生きしたいとか。


 ことほどさように人間はその場に留まってはいられないので、人々がすべからく幸福な世の中はそのある瞬間にしか存在しえない。


 となると、そういうことのために汗水を垂らし、ときには血を流してまで奮闘するのもいかがなものか、という気持ちになる。


 もっとも適切だと思えるのは、自分の実際に見える範囲で助け合い支え合う生き方で、それがグローバルに繋がっていくことだろう。人類とか世界とか地球とかを考えてはいけない。難しい議論などしなくてもわかる。さあ、バカになるのです。あなたも。


 〈たとえば〉は思いがけず興味深いシミュレートの扉を開けることもある。


 父のパソコンに、相性診断をするアプリがあったので覗いてみると、そこには健康、金銭、恋愛、結婚などいくつかの項目が立てられていて、それぞれについて占ってくれるのだった。占いの結果を見て驚いた。アプリの中で父と私は結婚し、その父と兄の妻は恋愛関係にあり、母と隣のおじさんは夫婦なのだった。


 そういうことも〈たとえば〉で考えるに留めれば証拠を残さずに済む。父がなんのためにそんな組み合わせをつくったのかは知らないが。たぶん想像力が痩せているのだろう。


 〈たとえば〉彼女が私のことを好きなら。……、しかしこれは〈たとえば〉の用法として不適切だ。〈たとえば〉は肯定的な意味合いに繋がるべきものだ。彼女が私のことを好き、という完全に否定的な、ありえない見通しに続く場合ならば〈もしも〉をつかう。


 〈たとえば〉馬がモーと啼いたら、ではなく〈もしも〉馬がモーと啼いたら、だ。


 〈たとえば〉はタラレバとも違う。〈たとえば〉はそんな卑近な話をするための言葉ではない。


 こんなに役立つ〈たとえば〉なのに、世の中にはひどく欠乏している気がする。それどころか日を追って減っているようにさえ思える。だからこんなにギスギスするのだ。


 〈たとえば〉を多く用れば目の前の現実とは別の〈たとえば〉の次元が心に生まれる。余裕ができる。だから私はあくせくした連中の眼を気にせず遠慮なく〈たとえば〉を考えられる〈たとえば〉券を発行したいくらいだ。


 そしてその券を手に入れたなら、いや入れなくても、1日1度は〈たとえば〉私があなただったら、あの人だったら、と考える習慣をもつのはたいへんに麗しいことだろう。

                           (了)


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