掌編小説【さようなら、もういちど】





                     400字詰原稿用紙約8枚

 3軒目のカウンターについて腕時計を見ると23時を回ったところだった。それほどは酔っていないつもりだったが、感覚の膨らみ具合がやはりいつもとは少し違う。

「もう毎日毎日、悲しくて悲しくて悲しくて、……。あー、マジで悲しい」

 カウンターの良子ちゃんが子どものように両手の人差し指の背で涙を拭うしぐさをした。

 良子ちゃんはこのたび“マジの大失恋”をしたのだそうだ。

 ……、そう、悲しくてたまらないときにはなりふりかまわず泣くしかないのだ。子どもみたいに。それがいちばんだろう。そうできるのであれば。

「自分を大切にするんだよ」

 誰かが珍妙な芝居がかったセリフを吐いた。バックバーの背後の鏡に映っているのは、ちゃっかり屋なやり手の坂本氏だった。もう還暦目前のはずなのに20歳そこそこの女の子に向かって「憧れておりました」みたいなことを真顔でいう。

「泣けてきちゃう。悲恋だわよ」

「恋なんてたとえどんななりゆきだったにしても、結局どちらか死ぬまでは終わらないものなんじゃないの」

 ひとつ置いて隣に掛けていた、やけに図体の大きな男が引き取った。

 柄にもなく、と胸のうちで悪態を吐いてみたけれども、大男の言葉は心に刺さった。確かに、当事者が死ねば途端に見え方が変わってくる、何かに気づく恋というのはある。

「男も女も星の数だし、道は必ずどこかの誰かに続いているから」

 次に自分も何かをいってやらなければならない、私の番だ、と察した私は、どこかで聞いた適当な言葉を呟いた。

 良子ちゃんの失恋の相手が死んだわけでもないだろう。人間はそんなに簡単に死なない。

「そういうふうに思えばいいんでしょうね、きっと」

 微笑みを浮かべてウイスキーを注いでくれる。良子ちゃんはいい娘だ。いつも、どんなときでも明るさがある。そう、音楽のように。

 ウイスキーの味がよくわからなくなっていた。

「本気の恋をしたら、そうなるかな」

 坂本氏が、これは大男の言葉にしたりげな口調でいう。
 
 ……どいつもこいつもわかったような口を利きやがって。

 そこから先どういう経緯でそうなったのかは覚えていない。ただ、なんだこの野郎、とスツールから立ち上がり、空足を踏む格好になり、バランスを崩した。見事に倒れた。

「飯田さん、今日はどうしたんですか。こんな飲み方をすることはないのに」

 バーテンの吉岡さんに肩を担がれるようにして自宅にたどり着いたのは、すでにあたりが明るくなりかけた午前4時過ぎだった。

 仕方がないなあ、と微苦笑する顔が脳裏に浮かんでは消えた。そのまままたへたり込んで眠った。

「飯田さん、やっばいよお。やばいやばい」

 みんなちゃんとした言葉遣いを忘れたのか、と叩き起こされたのを憤りながら電話に出た。

「飯田さん、飯田さん。どうしたの。やっぱり忘れてたっしょ」

 なんのことだか。

「オレも忘れてたんだけど、ヤッバイよお、ヤッバイってえ。今日は橋本教授の取材アポ取ってあんのよ。ってかあったのよ」

 橋本教授の取材ということは、担当ディレクターの佐藤だ。かすれ声がいつにも増して関取じみて聞こえる。

「今日、3日の土曜日午前10時、研究室で。思い出したでしょ。ね、ね、……、忘れてたでしょ。2人ともキレイさっぱり忘れてるなんて、こんなことあるかよ」

 佐藤もいましがた当の橋本教授からの電話で思い出したのだそうだ。もう半日も待たせている。

 取るものも取り敢えず大学の正門前で待ち合わせをして駆けつけた。フリーランスになって10年以上経つけれども、こんな失態ははじめてだし今後もないだろう。

 微苦笑する顔がうかぶ。アタマがグラグラする。完全な宿酔だった。

 相変わらずだよ、オレは。

 長く薄暗い廊下のほぼ突き当たりに橋本教授の部屋はあるらしい。

「取り敢えずふたりで心から謝りましょう。それでどうにもならなかったら、お怒りが治らなかったら、オレが土下座します」

 小走りに向かいながら佐藤ディレクターがいう。オレが、とはいってもひとりだけ土下座させておくわけにもいくまい。

「もちろん日を改めろとおっしゃられるなら、先生のご希望の日時をありがたく尊重します。いいですね」

 ふたりで目を合わせてドアをノックした。

 教授はあっけないほど穏やかな笑顔で迎えてくれた。初老の、見るからに学究肌という雰囲気を漂わせている。もしかしたら暇な人なのかと思ったけれども、そんなことを考えてはいけない。そんなことはあるまい。我々の運がよかっただけなのだ。

 佐藤ディクターとふたり頭を深く垂れて謝罪を繰り返し、うながされて古いがっしりした円卓に座ってかしこまっていると、教授は隅の小さな冷蔵庫から瓶入りの牛乳を取り出し、わざわざ栓を開けてふたりの前に置いてくれた。

 そういえば部屋には他に誰もいない。

 まずいことになったと思った。教授の他に誰もいないのもまずいが、私は牛乳がまったく苦手なのだ。飲んで30分ほどで必ず腹を下す。しかし中学校に入るまではふつうに飲めていたので味はわかる。

 テーブルに着いた教授は現在の研究内容をひと通り説明し終えると、続いて自身の経歴を語りはじめた。佐藤ディレクターが取材依頼に質問内容として書き記して送っていたのだろう。

 生真面目な、そしてやさしさが言葉や物腰の端々にもにじみ出ている好紳士である。

 しかし、学部の学生時代から留学の話になったあたりで、橋本教授はさりげないようすでまったく予想だにしない激しい言葉を挟んだ。

「人間は汚いですね。汚いです」

 一瞬、どう意味を捉えたものか教授の顔を見つめた。年老いて少し黄ばんだ眼が置いてきぼりにされた犬のように潤んでいる。

 学問や学問上のキャリアに関わるものではなさそうだった。

 大学という場所には往往にして驚くほど純粋といおうか世間知らずな人々が潜んでいる。それまでにも何度かそういう方々に出くわしてきた。橋本教授もたぶんそうしたひとりで、若く、しかし学生よりはいくぶんかは分別がありそうな我々に何かを吐露したいと思ったのだろう。

 橋本教授の突然の告白はただそれだけで止んだ。かつてひどく傷つけられ、いまもそれが癒えていないということだけが伝わった。

 続きの言葉を待っている我々に、橋本教授は改めて牛乳を勧めてくれた。そして少し間をおいて、再びこれまでの歩みの話に戻っていった。

 隣にいる佐藤ディレクターの顔つきを盗み見すると、恐縮しきってしきりに頷いている。あとで聞いたところでは、そこからいよいよ本格的に説教がはじまるのではないかと身構えていたそうだ。

 しきりに宿酔の喉が乾きを訴えていた。外は暑かったし、激しく緊張したし、冷蔵庫に入っていたガラス瓶入りの牛乳は冷たそうだ。記憶の中の暑い日の牛乳はとても美味しかった。

 微苦笑する顔がまた脳裏に浮かんだ。

 天の邪鬼なことをするのはやめなよ。

「いただきます」

 私はひとこと告げて牛乳瓶を鷲掴みにし、一気に飲み干した。牛乳を飲めないことを知っている佐藤ディレクターが、あっと小さな声を上げたような気がした。橋本教授が微笑んだ。

 その時点ではまだ取材の途中であり、切り上げる時間に迫られているわけでもなかったので、私のしたことはただただ愚かで無謀なことだった。

 しかし、心の叫びに応えられなかった我々に失望したのか、橋本教授の話はほどなくして終わった。

 とはいえすでにそのとき腹のなかでは顫動運動音が高まっている。再び平身低頭して研究室を辞した我々は、さっそく先ほど通りかかった教職員用トイレの前へ急ぎ、そこで別れた。

「それでは飯田さん、お大事に」

 トイレの中はさらにひんやりと涼しく、気持ちがよかった。座って腰掛けると目の前に時代錯誤なスローガンが貼り付けられている。

 もう5年も経っているのだな。オレは相変わらず、何もかも相変わらずのままだよ。

 喉の奥を衝いて嗚咽が漏れた。水を流した。

 ……、これからさらに思い出に生きていくにはどうすればいいのだろう。

                             



                              (了)




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