ショートショート 1分間の国 ◎【命あずけて】



 最初にネタばらしをしてしまう。これは夢のなかでのお話、こんな夢を見た、という他愛もない作品だ。しかし最後に「そこで目が覚めた」とやって顰蹙を買うのはいくら下手くそな私でも恥ずかしすぎる。


 それから私にその奇怪な夢を見させたのはたぶんティム・バートン監督、ジョニー・デップ主演の映画『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』だろうということもお知らせしておく。


 理髪店はなぜか肉屋と同じくらいに血腥い話の舞台に選ばれがちだから、それだけでなんとなくその手の物語だな、と興が削がれてもつまらない。だから先手を打って牽制しておく。

 さて、夢のなかのその日、私は勤務中にもかかわらず、久しぶりに地下街をぶらぶら歩いてみた。昭和の、しかも中期に造られた商店街は、人いきれがこもっているようでどこもどんよりと生暖かかった。


 地上への出口を探して目を左右にしていると、左手に理髪店のサインポールが立っている。青、白、赤の大きなねじりん棒。レトロとも呼べない中途半端な古さのそれは子どものころのクリスマスに貰ったキャンディを思い出させる。


 つられるように白いサビの浮いた側溝の蓋をまたいで店内に入ってみた。別に散髪をしたいわけでもなかったけれども、疲れ淀んだ空気から逃れられそうな気まぐれを起こしたのだ。


 入り口右手の壁に待合用の、見るからにビニール製の茶色い長ソファが押し付けてある。座ったその正面は、どこかの温泉地のお土産物らしい小さな人形をちまちまと飾ったガラスケースだ。そしてそのガラスケースを挟んだ左側が接客用のスペース。施術台が3台、鏡と相対して並んでいる。


 理髪店はなぜかモノを溜め込みがちなものだ。まだきっといろいろあるに違いない。


「いらっしゃいませ」


 どこから現れたのか、いや現れ方からすれば最初から入り口横の長ソファに座っていたとしか考えられないのだが、やや背の高い痩せ型の男がマスクをかけながら近づいてくる。


 眉が濃く太く、顔全体は青白い。あまり清潔ともいい難い肌に怯えたような、大きな、いってしまえば瞼のない魚じみた丸い眼が2つこちらを窺っている。


 紺屋の白袴よろしく黒々とコワそうな髪が乱れてボサボサと立っている。


 店の名前はなんというのか、検分の最後に素早く見渡しても入り口のガラスドアに金文字で書かれた「バーバー」という以外の表記は見当たらない。


 こういう古臭い理髪店にはありがちだろうと予想したのに反して賞状、トロフィー、盾の類は見当たらなかった。美容師免許とか営業許可証みたいなものくらいは壁に掲げたりしているものだと思ったけれども、それもない。


 客は私ひとり、従業員も眉毛の立派な彼ひとり。


「こちらへ」


 意外によく響く声で促されていちばん奥の施術台に座る。理髪店というよりは床屋というにふさわしい景色を背に、鏡の中の私が緊張している。


「散髪ですか」


「はい」


 次の瞬間、後ろに立っている彼の眉毛が揃って犬のように高く持ち上がった。眉毛が元の位置に戻ると厳かにいう。


「まず顔からあたりましょう」


 なんとなく薄汚い感じのする白衣が横に回り、施術台の椅子の背が倒される。仰向けに寝た私に彼がかぶさる。


 顔の上にかざされた彼の手には剃刀らしきものが握られている。


 タオルで蒸すとかシャボンをつけるとか、そんなもの一切なしでいきなり剃るのか。


 彼の節ばった長い指が握る剃刀は理髪店ではよく見かける2つ折りではなく、全体が日本刀のように1本の鋼でできているらしい。握る部分には白い布が巻かれている。


 鈍く銀色に光る峰の部分は分厚く、見るからにずっしりと剛硬な感じがする。その峰が横端に向かってそのまま薄く研ぎ澄まされ、最後はとても鋭い刃になっている。


 よく切れそうだ。


 私は咄嗟に、慌てて顔の真上まで運ばれていた彼の手首を掴む。確信はなかったけれども、危惧した通り、剃刀は強引に私の顔に切りつけられようとしている。


 見下ろす彼の魚の眼が涙ぐんだように濡れている。顔の中心に向かって寄っていて、明らかに狂気を孕んでいる。その向こうの、薄緑色の天井のくすみのなんとはるかに遠く平和なことか。


 きっとこの日本剃刀なら、私のふやけた顔など豆腐のようにざっくり切り割いてしまうだろう。そうすると、深く開いたその傷口を縫い合わせるのはたいへん難しく、ひどい傷跡が残るかもしれない。整形手術が必要になるかも。


 彼は体重をかけてのしかかってくる。


「うーえー、えーん」


 叫んで助けを呼ぼうとしたのに自分でも情けない悲鳴が喉を衝いた。万事休すだ


 眼が覚めた。恐怖は去った。それから、ベッドのなかであれこれどう考えてみても魚の眼の彼には見覚えはなかった。厭な、足元から這い上がるような悪寒は残った。


 数日後、私は夢のなかでぶらぶら歩いていたその地下街を訪ねた。驚いたことに実際には数年ぶりに訪れたそこは、なにからなにまで夢のなかと一致していた。こういうのは千里眼というのか予知夢というのか。


 もしあれが現時点でいえば正夢だったとすると、私はこれから理髪店に入って顔を切られることになる。


 しかし心配は無用だ。私はもしあの理髪店を見つけたとしてももう立ち寄ることはない。なぜなら私は限りなく坊主頭に近い丸刈りなのだ。これ以上刈るところなどない。いまも、あの夢のなかでも。我ながら呆れるほどバカバカしく滑稽ではないか。


 魚の眼のあの理容師は、そんな坊主頭の客がおもむろに入ってきて散髪をしろと注文したのでからかわれたと思ったのかもしれない。おまえ、その頭のどこを刈れというのだ、と激昂したのではないか。


 夢のなかの理髪店のあった場所に近づいている。


 考えてみれば、理髪店の顔剃りは怖い。あれは命を預けているようなものではないか。日常の行いのなかで他人に命を委ねる場面といえば、ほかには病気か怪我で入院したときか、それからバンジージャンプのハーネスを装着してもらうときくらいしか思いつかない。


 理髪店だ。理髪店がある。三色のねじりん棒もある。そして入り口にはあいつ。マスクの上に出た魚の眼がしきりに私の視線に絡み、それを捕らえる。

                              (了)


次回もお楽しみに。投げ銭(サポート)もぜひご遠慮なく。励みになります。頼みます。


無断流用は固くお断りいたします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?