掌編小説【夏の影】




                         原稿用紙約五枚

 少し遅い夏休みをとって故郷へ帰った。8年ぶりの故郷は進学のために出たときとほとんど変わっておらず、ただ少しだけ疲れて寂れてしまっているような感じがした。

 他の地方都市に比べればこれでもよく保っているほうじゃないか、と父親はいい、ここにいてよかったわよ、と母親も安堵した表情を見せる。

 そう、もうすべからくは終わりがそこまで近づいている。だから最期のそのときまで、わずかに残った惰性に乗ってなんとかたどり着ければ、というのがささやかな願いなのだ。

 街並みはほとんどそのままなのに寂れた感じがする理由はすぐに察しがついた。人の姿がないのだ。実家のある住宅街には終日ほとんど人影がない。夏休みのはずなのに子どもの声も聞こえない。そういえばうるさかった軽トラックの竿竹屋も来ない。

 冬になるとこの寂しさはもっとのっぴきならないものになる。雪が降り積もり、一切の音が消え、玄関先がいつまでもそのままで足跡のつかない家は、住人不在の空き家か、あるいは寝込んでいるか死んでいるかに違いないのだ。

 今度の冬も足跡のつかない家は思いのほかそちこちに出現するだろう。

 北国の冬の痛みは他の人にはわからない。だからじっと蹲るようにして堪えるしかない。

 庭の隅に笹竹が数本立てかけてある。願いごとを書いた短冊を下げる七夕にちょうどよい枝ぶりだが、1ヵ月遅れの北海道の七夕ももうとっくに終わってしまっている。

 そういえばお盆も終わった。

 織姫と彦星がようやく年に1度の逢瀬を果たしたと思ったら、その1週間ののちには亡くなったご先祖様たちが帰ってくる。北国の夏は忙しい、というべきか。生と死は隣り合わせというべきか。

 鬱屈した気分でも、遅まきながらでも、明日は墓参に行かなければならない。

〈ろうそく出せ、出せよ。出さないとかっちゃくぞ。おまけに噛みつくぞ、……〉

 子どものころ、七夕の夜、学校の仲間と歌いながら近所の家を回ったことがある。すると子どもたちの訪れた家では紙に包んだお菓子を渡してくれるのだ。ハロウインの習慣によく似ている。


 墓参の帰り、思いついてショッピング・センターに寄って簡単な釣りのセットを買った。竿は庭にあった笹竹を使う。安物のおもちゃを使うよりはかえって風情があって面白いではないか。

 それなりにいえば書斎派の父親はなつかない息子と外で遊ぶことなど一度もなかったし、学区外からの通学で近所にそれほど親しい友達もいなかったので、子ども時代の思い出はもっぱら山か川かでの一人遊びだ。それを懐かしんでもう一度やってみようと思ったのだ。

 子どものころの私はずっと沈黙していたような気がする。大人になって人並みに交流をもつようにはなったけれども、数年後、こうやってまた一人の時代に戻ってきた。

 そして6年前のズボンに足を通したとき、あまりにも変わらない感触に不意に込み上げてきた引き攣った笑い。

 ゆっくり時間をかけて考えなければならないことがある。

 

 河は実家から歩いて5分ほどの近くにある。一級河川でそれなりに川幅もあるが水量はそれほど多くない。その昔は暴れ川と恐れられていたそうだけれども、容赦ないほどの治水対策のおかげですっかり落ち着いた流れになっている。

 だが川は膝丈くらいの深さでも人を流してしまうことがある。この川でも数年おきに子どもが溺れていたものだ。

 川原に降りてゴロゴロとした石の上をヨチヨチ進み、流れに近い適当な場所に腰を下ろす。

 笹竹に針と錘と浮きを結わえた釣り糸をつけ、餌は、これもショッピング・センターで買った、小さなビニール袋におが屑と一緒に入っているサシと呼ばれるハエの幼虫だ。

 ハエの幼虫でさえ、生き延びようと必死に体を蠕動させる。ぷすりと針を刺すと白い乳液のようなものが出てくる。

 対岸の向こう、ところどころの薮のあいだに家並みが見える。

 廃屋対策がたいへんだとかいわれているけれども、とくに危なそうな箇所は壊してあとは自然のままに任せてしまえばいいのだ。このあたりだと4、5年も経てばすっかり雑草類に覆われてしまうだろう。

 それがいちばん美しい景観ではないか。人間があれこれ思い悩んでいるあいだに自然は黙々と自分たちの時間を生きている。もう人間の出る幕はない。

 竿が思いがけなく激しく引かれた。怠惰な私に魚など釣れるはずはなかったのに。

 突然の不条理に襲われて怒りに打たれた魚は水の中で体を捻り、反転を繰り返し、首を振って暴れる。水しぶきが立って体が現れる。

 立ち上がって掴んだウグイの体は野生に満ちて激しく痙攣しているようでもあり、強く握らなければ捕まえられず、かといって強く握りすぎては命まで奪ってしまいそうでエロチックな感じがした。

 過呼吸の口がパクパクと動いている。慎重に針を外す。河の中に手を入れて放すと、その20センチほどの薄灰色と白の生き物は一呼吸をおいて小さな淵のほうへ身を翻した。

 うまく返せてよかった、やっぱり釣りはもうやめようと思った。


 虫たちの声と水の音が一斉に耳を聾せんばかりに立ち上がった。


 足元を流れる水が小さく砕けて光が飛散する。


 むせかえるような川と緑の匂いが体を包んで燃え上がる。


 日差しの重さを首筋に感じる。


 雲ひとつない夏空の下、ひとり影のような私が立っている。




                        (了)




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