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喫茶【くらしかるブッディズム】vol.7

【くらしかるブッディズム】は、昔から使われてきた仏教の言葉を、いま再び見つめ直すコーナーです。
※第1~6回はこちら


第7回は、「喫茶きっさ」です。


あなたは喫茶店に行くのはお好きですか?最近は「カフェ」という名前のお店の方が多いかもしれないですね。あえて「純喫茶」に行くのも素敵です。

私はコーヒーが好きで、家でもお店でもよく飲みます。最近は遠出することが少ないので喫茶店に入ることは少なくなりましたが、外出先でちょっと疲れてしまったとき、喫茶店に入って、コーヒーの良い香りをかぐと、ホッとします。

さて、「喫」という字は「飲む」とか「食べる」という意味を表す言葉で、「喫茶」は「お茶を飲む」という意味になるのですが、この「喫茶」を含む有名な禅語に、「喫茶去きっさこ」があります。8~9世紀頃、中国の唐の時代に生きた趙州従諗じょうしゅうじゅうしんという高僧の言葉です。


あるとき、趙州禅師のもとに、2人の修行僧が教えを請いに訪ねてきました。

趙州禅師が、ひとりの修行僧に、「かつてここに来たことがあるか」と尋ねると、その修行僧は「いいえ、来たことはありません」と答えました。趙州禅師はこの修行僧に対して「喫茶去」と告げます。

次に、もうひとりの修行僧に「かつてここに来たことがあるか」と聞くと、その修行僧は「はい、来たことがあります」と答えました。趙州禅師はこの修行僧に対しても、「喫茶去」と告げます。

これを見ていた院主が、趙州禅師に聞きました。「かつてここに来たことがない者に「喫茶去」とおっしゃり、かつてここに来たことがある者にも「喫茶去」とおっしゃったのは、なぜですか」と。

すると、趙州禅師が突然「院主さん!」と言ったので、院主は「はい!」と返事をしました。そして、趙州禅師は彼にもまた、「喫茶去」と告げました。



このときの「喫茶去」という言葉の意味については、大きく分けて、「お茶でも飲んで出直してきなさい」という叱責であるとする説と、「まあお茶でも飲んでいきなさい」とお茶をすすめる言葉であるとする説があります。特に禅の言葉としては、前者の叱責が本来の意味であるとされているようです。

「お茶でも飲んで出直してきなさい」というのは、いかにも「まだまだ修行が足りん」という感じで、納得できるような気もします。一方、「まあお茶でも飲んでいきなさい」というのも、禅の高僧が口にするからこそ、「お茶を飲むという何気ない行為のなかにこそ真理が隠されているのかもしれない」と思わされる解釈です。

しかし、こういう、「わかったような気がする」ところで納得してしまうという姿勢は、実は自分を進歩させないのではないか、と最近思うのです。

そもそも、たった37年間生きてきただけで、禅の修行をしたわけでもない私が「わかったような気がする」と感じることは、この場合、善いことなのでしょうか。

たとえば、「修行が足りない」と言うなら、これからどのような修行をすれば良いのか、そして何と答えれば合格なのか、そこまでわかっていなければ本当に「わかった」とは言えないでしょう。

また、「何気ない行為のなかに隠されている真理」とは何なのか心当たりがなければ、これも「わかった」とは言えないはずです。

そもそも、「まだまだ修行が足りん」とか「何気ない行為の中に…」とか、そんなどこかで聞いたことのあるような言葉で解釈できるような単純な問題ではないはずです。

しかし私の脳みそは、考えることを放棄して、本来複雑で難しいことを、単純で易しいこととして「処理」しようとしてしまいます。

結局のところ、「わかりたい」「少しでも真意に近づきたい」という情熱がなければ、この困った「処理」を回避して、努力する方向に向かうというのは難しいのかもしれません。

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ああ、遅い時間まで色々考えすぎて、ちょっと疲れてしまいました。
今日はこれくらいにして、温かいお茶でも飲んで、ゆっくり休みます。

それでは、また。

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