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なぜあなたは天才なのか?

え、「自称天才」ってイタくない?

タイトル見て、違和感を覚えた方も多いかも。「自分は天才だ!」と確信をもって断言できる人は稀だからでは。
たまにいますね、「自称天才」。でも、本人だけがそう思っていて、周りは痛々しく見守っていたり。それを見て自称天才になることを恐れる構図があるのかなと。

「天才」ってなんだろう?

天のつくもの。天職。天才。人々のあこがれ。自分ではどうしようもないもの。手に入れる確実な方法が確立していないもの。口を開けて待ってないといけないもの。そんなイメージ。それって真実?

いまの自分にはなくて、宝くじの1等くらい手に入らないもの――そんな印象があるかも。他者はよく見えるのに、自分はよく見えない。

「天才」のイメージ

「天才」って、何でもできて、何でも持っていて、何でもスイスイ、大きなことを成し遂げちゃうイメージ。オーラがあってスーパー、いつも友人とワイワイ楽しそう。そして、今の自分はそんなものじゃない。だから「わたしは天才じゃない」って結論に達している。とりあえずそういう結論にしている。心のどこかで実は自分は天才じゃないかって、期待しながら。

結論: あなたは天才!

どうか、誤解しないで。あやしい自己啓発と一緒にしないでほしいので。セミナーの案内とか高額なDVDセットとか高額オンラインサロンに勧誘するつもりはこれっぽっちもないので。

で、天才とは?

どこにあるかわからない、謎めいた天から与えられるもの、付与されるもの。否定しない。

ここに一つの解釈を足したい。天才とは、生まれながらにその人に与えられているもの、だ。

天才→天才性

「天才」という言葉にあまりにも強烈なイメージがまとわりついているので、少し言葉を見直したい。「天才性」というほうがしっくりくる。
つまり、こういうこと。

- 誰しも天才性を持っている。
- 天才性を発揮して他者に認められる時に「天才」と呼ばれることがある。
- 他人から華々しく「天才」と呼ばれる結果を得ようとがんばるよりも、自分のうちからにじみ出てくる「天才性」を磨くことのほうがラクだし、多分本人はしあわせ。
続くから結果に繋がりやすい。

でも結果にとらわれないことが大切。本人がしあわせなとき、周りにもしあわせのおすそ分けをする余裕が生まれる。

時代が天才を生むのか?天才が時代を作るのか?

自分の天才性が、今の時代に役に立たないからと悲観しない。いつの時代も天才は時代の先を行っていた。いやむしろ、時代を作った=世界を変えるインパクトを与えたらから「天才」と呼ばれる。
天才と呼ばれる人は、その時代の他の「天才」を見て、そのようになろうとはしない。憧れてきっかけになることはあっても、やがて自分との違いに落胆する。しかしあきらめないで、その先に自分らしさを見出すプロセスをたどることで、自身の天才性を開花させる。そしていつしか「天才」と呼ばれるようになる。

天才は、自分のうちに与えられているものを見つけ発掘し磨いて世に提供する。天才性はすでに自分の中にあり、それを活かすことができるだけだ。うらやむ時間を使って代わりに自分の興味関心を深堀りする。飽きるまでひたすら続ける。

天才であるあなたが最初にすべきことは、自分の中に天才性が存在することを認め心底受け入れること。そして、実はそれがもっとも大切なことだ。そこが最大の障壁になっていることが多いからだ。
すぐには自分の天才性がわからないかもしれない。天才らしい成果と呼べるものはないかもしれない。でも、成果を度外視して続けられるものに目を向ける。成果を求めて天才になるのではなく、天才性が発揮されていつしか成果となる。

子どもとおとなの違い

子どもの場合は、白いキャンバスに描くように、そのまま天才性を追究して進んでいけば良い。しかし、おとな となると前処理がもう一つ必要になる。つまり、それまで親を始め環境から「学んだ」(受けてきた)影響をいったんキャンセルしてゼロリセットすることが必要になる場合が多い。
アインシュタイン曰く、

「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。
Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen.」

常識というものが、本当に真か点検が必要だ。思い込みに過ぎないなら手放していい。当たり前になっているからといって真理ではないこともある。

…あやしい自己啓発は、ここらへんで思い込みを打ち破ってくれる、ありがた〜い解決法を「有料で」提示してくる。だまされてはいけない。

…と思うとだまされる。ゆるく捉えるのがいいと思う。ここでは無理に「天才になるには?」とか力んではいけない。裏側にある、富、権力、名声への欲求を理解しておく必要がある。

なぜ、私たちはそれらのものを求めるのか?

根底には恐れがある。
天才性は「恐れ」という日陰のジメジメしたところではなく、「愛」に基づく自由の光のもとでよく育つ。

「実は人間は、生きているうちに自分のダークサイドを自力で完全に消すことはできないのではないか?」わたしはそのように考えるようになった。ダークサイドを理解してうまく距離をとって付き合いつつ、自分に光を取り込むことが必要だ、と思う。

往々にして昔受けた傷(いやなこと)に人は目をふさぎがちだ。そこにあるのに、見えない。脳みそが視界から消し去ってしまう。

本当はできるのに、できないと思っている。そのことを「その通り」と受け入れても「しかし自力では原因を見極められない、変えられない」と言う。それも自由。ただ「なのに、なぜ私は天才ではないのか?できないのか?」とまだ問うのだろうか。自分で答えを述べているのにその矛盾に気がつかない。見たくない不都合な真実がそこにあるからだ。いや、一番の理想(と思う)状態に自分で選択して自らを置いているに過ぎない。

私も含め、かように人間は弱く、愚かである。そして同時に、賢くて天才性を有している。

アインシュタインは「天才」についても興味深いことを述べている。

「私は天才ではありません。ただ、人より長くひとつのことと付き合ってきただけです。
It's not that I'm so smart, it's just that I stay with problems longer.」

「天才」と言われるアインシュタインが、自身が天才であることを否定している。仮に "天才はすべてにおいて真であり間違いのないパーフェクトな人間だ" とするならば、自分を天才としないアインシュタインか、彼を天才とする私たちのどちらかが間違っていることになる。彼を天才と呼ぶ人は人の話を聞いていないだけなのか、「天才」(というラベルで語られる「完璧な人」)は幻想にすぎないことを受け入れられないのか。どちらだろう?

あるいは、天才は自分のことを分かっていないのか。自分は天才だとは思わない。他人から評価されるものが天才、と。ならば、わたしたちは、なぜ天才になろうとするのか。自分は天才でないと自分でわかるのだろうか。「何でもできる人=天才は、自分を分かっていない人である」という論理は矛盾してないだろうか。

高度なメタ認知ができる知力の高い人間が天才なのか。上手に言葉を使いレトリックを駆使できる人が天才なのか。あなたにとっての「天才」とはなんだろう。

「神の前において我々は平等に賢く、平等に愚かである。
Before God we are all equally wise— and equally foolish.」

天才が一握りの人しかいなくて、その人と自分が違うと思うのは幻想。きっと映画やテレビの見過ぎ。一つ一つの要素を各分野のエキスパートと比べれば、誰しもどこか他者にかなわないところが出てくる。すべてが他の人より勝って完全な人間などいない。相対的に多くのものを持っている人とその才能が「天才」と呼ばれているものの正体では(そしてそれは多くの部分で幻想を含んでいるかもしれない)。

「天才になりたい」の裏側にある心理

天才であることと、天才になりたいと思うことは似て非なるもの。

「天才であること」は、自分自身に与えられている才能・性質・経験・リソース・思い・関係性・状態・環境を素直に受け止め、活かしている状態のこと。

「天才になりたい」のは、恐怖から逃れるため。人生イージーモードで、何をしてもうまくいき、お金も時間も使いきれないほどあり、同性・異性関係なくモテて ... つまるところ安心できる状態を求めている。好みはあれど、現在の心の状態を認めることは悪いことではない。

「チヤホヤされたい、安心したい」――その欲求は自然で、大切で、満たされるべきものだ。ポイントは、その一見、醜くくて許容しがたいかっこ悪くてダサい生々しい欲求を、何度も何度も、認め受け入れ続けることだ。

「自分は天才ではない」ということを言い訳にして、あなたが不幸せでいいわけがない。あなたの天才性によって救われ、助けられる人がこの広い世界のどこかで待っている。重荷に感じるタイプの使命ではなくて、喜んで取り組めるタイプのライフワークは、必ずあなたにも備えられている。すぐお金にはならないかもしれない。人からスゴイと言われないかもしれない。時に思い通りにならなくて、苦しくて、投げ出したくなるかもしれない。でも取り組むこと自体にしあわせを感じ、あなた自身と出会う喜びが感じられるなら、それはお金や名声よりも、実はあなたが人生において最もほしいものではないだろうか?

みんな天才。受け入れられる?

誰もが天才。あなたもわたしも。形が違うだけ。分野が違うだけ。

「調べられるものを、いちいち覚えておく必要などない」

自分のできるところ、得意なところ、好きで仕方ないところに取り組む。

「普通と言われる人生を送る人間なんて、一人としていやしない。いたらぜひ、お目にかかりたいものだ。」

やはりアインシュタインは天才だったと思う。

誰もが天才

誰も「普通」ではない。誰もが「天才」だ。完璧になんでもできる(Do)スーパーマン・スーパーガールが天才ではなくて、完璧に自分でいられる(Be)人こそが天才。

そして、あなたもまた天才なのだ。

※引用の言葉はすべて、物理学者アルベルト・アインシュタインによるものです。

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