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メモと覚書『人類学のすすめ』

 つまり、こういうことである。ほかの科学はみんな、人間を本質的には一つのもの、おなじものとみているのである。だから、くわしくしらべてばしだいに、その「人間」という一つのものの本性があきらかになるはずだ、とかんがえているのである。
(中略)
 それに対して、人類学の立場はちがう。人類学では、人間は、本質的に一つのもの、おなじものとはみていないのである。人間にはいろいろある。人間は多様なものだ、というのが、人類学の前提なのである。だから、いくらくわしくしらべても、「人間」という一つの存在の本性があきらかになるとは、かならずしもかんがえていないのである。そして、その多様性を追求し、変化を研究するのである。

梅棹忠夫(1974)「人類学のすすめ」梅棹忠夫編『人類学のすすめ』筑摩書房. p.251.

 人類学者は、つねに各地におもむき、人間現象のさまざまなヴァラエティをさがしだして、それをきわめて実証的な方法で研究し、記述する。そしてそれを、他の人間研究家たちの学説側のまえにさしだしてみせる。人類学というものは、人類学以外の人間に関する諸科学にとって、まことにいやな存在であるかもしれない。どのような分野であれ、社会科学者、文化科学者たちが、自分たちの身のまわりの人間を材料として研究し、その結果をまとめて、人間に関する一つのテーゼをたてると、それに対して人類学者が、そのテーゼに合致しない実例を世界のどこかからさがしだして、つきつけるのである。そういう事態が、ほとんど例外なくおこるという覚悟をしておかなければならないのである。人類学者は、人間諸科学における学説の破壊者であり、学説形成の妨害者である。
 それはそれでいいのである。学説は、人類学的反証をとりこんで、拡大しないわけにはゆかない。そこで、この人類学的知見をとりこんで、あたらしい人間観が形成されることになる。

梅棹忠夫(1974)「人類学のすすめ」梅棹忠夫編『人類学のすすめ』筑摩書房. p.254.

 最近、このあたりの内容を会話で引用することが多かったのでメモしておこうと思いました。今日、どのように諸学問が人間を見て扱っているのかはわからないし、人類学が今もこのような立ち位置にいるのかは分からないけれど、とても面白いなと思ったので度々引用しています。
 あとは、後ろに載せた関連トピックと関連して、統計学的視点を前提においた上で諸科学の知識を用いたり、大きい名詞を使うときは気をつけたり、日常で暮らす上での態度に反映しているつもりです。

▼関連トピック
・「記述統計」と「統計学的推測」
・平均人(Adolphe Quetelet,1835)
・統計学的人間観(磯野真穂, 2022)

 ここでいう「平均人」とは、19世紀に天文学者のアドルフ・ケトレが提唱した概念であり、統計学的に導かれた人間像のことを指す。

磯野真穂(2022)『他者と生きる』集英社新書. p.150.

「平均人」はある集団の特徴を客観的に表すとみなされながらも、実体としてそれはどこにも存在しない、複雑な計算式を通して現れる架空の物言わぬ人である。それはどこにでもいることにされているが、どこにもいない。誰でもあるが、誰でもない。それゆえに「平均人」が国境を超えた現代社会の病理の現れとして語られる時、全人類の起源とされる狩猟採集民の暮らしと生物学に救済の手がかりが求められ、そこから始まる病いの起源の物語は、全人類に向けた救済の物語としての力を持つ。狩猟採集民を起源に携えた「平均人」はその時、全人類に向けて大いに語るのだ。

磯野真穂(2022)『他者と生きる』集英社新書. p.153.

▼文献メモ

・Adolphe Quetelet (1835)"Sur l'Homme Et Le Développement de Ses Facultés, Ou Essai de Physique Sociale”, Paris, 『人間に就いて』(平貞藏・山村喬訳,岩波文庫,上・下巻)
・磯野真穂(2022)『他者と生きる』集英社新書.
・梅棹忠夫編(1974)『人類学のすすめ』筑摩書房.


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