4月に読んだ本



『つくる たべる よむ』本の雑誌編集部 編

料理、全然できない!

鈴木智彦さんが、土井善治さんの料理本の通りに料理を作ることを続けていくうちにだんだん料理ができるようになった。という話を書かれていて
土井さんの本を読んでみたいなと思った。

フランス料理の料理人である道野正さんが紹介していた、萩原朔太郎の「旅上」

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
五月の朝のしののめ
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
うら若草のもえいづる心まかせに。

萩原朔太郎『旅上』

去年何かの本でも読んだけどすごくいい詩。
ちょうど今の季節!
新しい服を着てどこかに行きたくなる。
早起きして電車に乗ってどこか遠くに行こうかな。
ツールドフランスも行ってみたいけど、あまりに遠し。
でも体が動くうちに行きたいな~。

高頭佐知子さんが紹介されていた、「霧の向こうの不思議な町」に出てきた
というたくあんサンドおいしそうかも!!

私が本を読んでいて食べたくなったのは、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』に出てきた、キュウリとハムとチーズのサンドイッチ。すごくおいしそうだった。
自分では上手に作れる気がしないけど…。今度やってみようかな。

「許永中、望郷のグルメ」も面白かった!

紹介されてて読んでみたいなと思ったのは、「おいしさの人類史」と「今日も料理」

おなか減ってきた。

『文学キョーダイ‼︎』逢坂冬馬 奈倉有里

「同志少女よ敵を撃て」の逢坂冬馬さんと、『ことばの白地図を歩く』の奈倉有里さんの姉弟が対談している本。
面白かった。
「同志少女よ〜」は読んだという友達にわざわざ感想まで聞いたのに、いまだに読んでない…。今年中に読むぞ。

奈倉有里さんの本は今年から読み始めてすごく好きになった!
奈倉さんが、お母さんに「文学のサカナくんになればいいのよ!」て言われたという話が面白かった。

同志少女よのロシア考証を奈倉さんにやってもらって、訂正の付箋が尽きるくらい直されたって話もよかった。
ロシアにはお店でパンを作るパン屋がなかったとか。

最後の奈倉さんの言葉

「深く考えないとわからないことに、本の力を借りるとたどり着けることがある。
本を読むことによって、思考の可能性が開けていく。あらかじめ用意された回答で満足なんかしていられないぞ、という思考回路ができてくる。それが読書の楽しみのひとつなんです」

『三島由紀夫スポーツ論』三島由紀夫

はいっていきなり遠藤選手の床運動(徒手)を見たが、ひろいマットの上の空間に、ジョキジョキよく切れる鋏を入れて、まっ白な切断面を次々に作ってゆくような美技にあきれた。
私たちはふだん、自分の肉体のまわりの空間を、どんよりと眠らせてほうっておくのと同じことだ。
あんなに直線的に、鮮やかに、空間を裁断してゆく人間の肉体。
全身のどの隅々にまでも、バランスと秩序を与えつづけ、どの瞬間にもそれを崩さずに、思い切った放埒を演ずる肉体。
全く体操の美技を見ると、人間はたしかに昔、神だったのだろうという気がする。
というのは、選手が跳んだり、宙返りしたりした空間は、全く彼の支配下にあるように見え、選手が演技を終って静止したあとも、彼が全身で切り抜いてきた白い空間は、まだピリピリと慄えて、彼に属しているように見えるからだ。

三島由紀夫『三島由紀夫』スポーツ論

体操のことを書いて神に行きついてしまう三島由紀夫。

東京オリンピックのことも。
開会式の様子が美しく書かれている。
実際に見たら逆にがっかりしそう。
女子バレーボールを見て涙を流したり、短距離走者を「壁抜け男」にたとえたり、ボクシングに熱くなったりする。

さっき神のようだった選手は、こうして会ってみると、風貌、態度のどこにも人間離れのしたところはない。
むしろ休息時の選手の顔に浮んでいるその平均的日本人の日常的表情と、あの神業との間をつなぐ、「練習」という苛酷な見えない鎖が感じられる。
それは神と人間をむりやりに結びつける神聖な鎖なのだ。

三島由紀夫スポーツ論

というところに、選手への尊敬が表れていた。

自らもスポーツをやっていたからこそ浮かぶ発想なのかもしれない。

ボクシング、剣道、ボディビルをやっていた。
特に

「人から見たら、まだ大した体じゃないというだろうが、主観的にいい体格ならそれでよろしい」
「30年間の劣等感が一年で治るのであるから、私が信者になったとて無理ではあるまい」

と、ボディビルをやることで三島は自らのコンプレックスを解消していく。
単純に良いことではないか!

しかし三島は

「私は思うのだが、知性には、どうしても、それとバランスを取るだけの量の肉が必要であるらしい。」

と、精神と肉体の均衡というものに強い拘りを見せるようになる。
身体を鍛えるにつれて、考え方もマッチョになっていく。
女は知性と筋肉では男に100万年経っても勝てない、などと、しょうもないことも言いだす。
「太陽と鉄」のテーマは筋肉と知性と死だ。
世でいわれているように、三島には戦争に行けなかったという強い劣等感があったとは思う。
しかし、三島があそこまで死に惹かれた理由の、本質的なところはいまひとつわからない。

ボディビルを始めたばかりのころの文章に、自分を牛のまねをしてお腹を膨らませるカエルの童話にたとえて「破裂する途上にあるのかもしれない」と書いているものがあった。
わかっていたんだと思った。
わかっていながら失くしていくものについて考える。
生きていたら三島の考えは変わったのか、あるいは変わらなかったのか。
その場合どう生きたのか。その変遷を知りたかった、とどうしようもないことを思う。

谷川俊太郎編 茨木のり子詩集

若い頃の張り詰めたようなきびしさのある詩もいいけど、少し歳をとってからのおだやかな詩もいい。

「さくら」がやっぱり好きだな。

ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
(中略)
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と

茨木のり子詩集「さくら」

詩を省略するってすごく失礼な気がする…。


若い娘がだるそうに贈っていた あたしねえ ポエムをひとつ作って
彼に贈ったの
虫っていう題 「あたし蚤かダニになりたいの
そうすれば二十四時間あなたにくっついていられる」
はちゃめちゃな幅の広さよ ポエムとは

茨木のり子詩集「笑う能力」

わらた

山笑う
という日本語もいい
春の微笑を通りすぎ
山よ新録どよもして
大いに笑え!

茨木のり子詩集「笑う能力」

山笑うって言葉、
私もだいすき!と思って嬉しくなった。

宇宙の漆黒の闇のなかを
ひっそりまわる水の星
まわりには仲間もなく親戚もなく
まるで孤独な星なんだ

生まれてこのかた
何に一番驚いたかと言えば
水一滴もこぼさずに廻る地球を
外からパチリと写した一枚の写真
どこかさびしげな水の星
こういうところに棲んでいましたか
いのちの豊饒を抱えながら
軌道を逸れることもなく いまだ死の星にもならず
(中略)
極小の一分子でもある人間がゆえなくさびしいのもあたりまえで
あたりまえすぎることは言わないほうがいいのでしょう

茨木のり子詩集「水の星」

『入門 山頭火』町田康

「分け入つても分け入つても青い山」

の種田山頭火の人生と句を町田康がエッセイ形式で紹介する。

町田康が「やっぱ銭の問題って大きいよね」と書いているように
山頭火はお金でとても苦労する。
そして酒に溺れ、酒に依存しながら生きる。

山頭火は父と買い取った造り酒屋が失敗した後、熊本で妻と営んだ雑貨屋の営業をする。
しかし営業に向いていないと酒を飲む。
上京して自ら苦しい肉体労働の職を選んで体を壊す。
せっかく図書館で正規雇用されても、その仕事をやめてしまう。
なんでだよと思う。
理由はじっとしていられないからだ、という。
放浪して、身体の内側から湧き上がるものを書きたいのだと。
仏門に入るも、寺を出ることになる。
放浪しながら、やっぱりお酒に走る。
せっかく作った雑誌のお金もお酒に使ってしまう。

どうしようもないわたしが歩いてゐる」

どうしようもない、けれど、そのどうしようもない私、のなかに自分がいないと言いきれない。
山頭火のどうしようもなさに自分を見る。
どうしようもない人間の真実の姿を山頭火は正直に日記に書いた。
山頭火の句は今も読まれ続けて、月日が経っても色褪せることはない。
死ぬことができずに歩き続けた山頭火。
その燃える句の意味を、町田康がわけいってわけいって、探しだした。

町田康の文章がとにかく面白かった。
声をだして笑ったし、涙もこぼれた。
とてもよかった。いい本だった。
種田山頭火と町田康が好きになった。


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