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全てを学校に求めるのは無理がある

学校に求められることが増えすぎている。

文科省が学校において学力の3要素(「知識・技能」「思考力・判断力・表現力等」「主体的に学習に取り組む態度」)を身につけることを提唱して久しい。以前に比べ、学校で身につける力が幅広くなったわけだが、果たして3要素全てを学校で網羅することなんてできるのだろうか。

ここで各技能を身につけるために有効な取り組みを整理しておこう。

知識・技能を育てるための取り組み。これは、先生が教壇に立って行う一方向的な授業だ。

思考力・判断力・表現力を育てるための取り組み。これは、アクティブラーニングを取り入れた授業だ。ディスカッション、プレゼンテーションを用いて、能動的な活動を行う。また、自分の考えを文章にまとめることも、この分野に当たる。

主体的に学習に取り組む態度を育てるための取り組み。社会のあらゆる事象について問題を発見し、その解決に取り組んでいく。探究活動や文化系の部活動がその中心となる。

もちろん、各取り組みがオーバーラップしている部分もある。例えば、数学の知識定着を生徒同士の教え合いによって取り組む例がそうだ。これは、知識技能の涵養をアクティブラーニングで行っている事例だ。

以前であれば、学校での取り組みは知識・技能の部分が中心だった。それが、他の観点に関しても、学校での涵養が求められるようになった。

知識や技能の向上を、予習やICT機器に任せ、思考力・判断力・表現力の向上を学校で行うなど、何かを削る代わりに、何かを付け加えるなら理解できる。しかし、理想と現実は違う。全ての生徒が自分で予習やICTでの学習ができるわけではないからだ。結果、知識・技能を身につけながら、他の能力の涵養も学校に求められる。結果、学校での取り組みがパンクするというのが私の考えだ。授業以外にも、補習や講習、定期テスト、模試の実施、部活動、宿泊研修や修学旅行といった課外活動と、学校が取り扱う領域はどんどんと広がっている。

特に私立となれば、学校存続のために、受験生や保護者向けにアピールが必要だ。あれもやります、これもやりますと約束した方が、聞こえは良い。しかし、約束を果たすためのしわ寄せは、教員に向かい、疲弊を招くことを忘れてはならない。

そもそも、学校での取り組みの根幹となるのは授業だ。だから、授業の質の向上こそ、学校で取り組むべき一番大切なことだ。授業の質を上げるには、教員の力量とともに、授業の準備時間の確保が求められる。準備時間は授業の種類が増えるほど多くの時間が必要だ。前述の通り、授業における、身につける力の領域が広がっているならば、余計に準備の時間が必要だろう。しかし実際は、授業の準備時間を確保できるとは程遠い現状だ。例えば、多くの私立は生徒の学力に合わせて「コース制」を設けている。特進コースと進学コースの2コースを担当している教員は、同じ単元であっても2通りの授業準備が求められる。最近はコースがさらに細分化されているケースも見られる。時間が有限な中で教員が何種類もの授業準備を行うためには、準備を希薄化させるか、睡眠時間を削るしかない。これでは、本末担当である。本来は生徒のレベルを一定にして、コース制を引かずに、カリキュラムを一本化するのが最も効率的だ。しかしそれでは、他の学校との差別化やアピールに欠ける。偏差値も上がらない。この不安から、学校、特に私立はコース制を敷き、先生に負担を強いている。本末転倒だ。

とにかく、学校に全てを期待することは無理なのだ。時間が有限な中で、学校に全てを求めることこそ、学校の質の低下を招く。だから、これからは学校が何をやらないか、なぜやらないかに注目したほうが良いと思う。

なぜ、コース制を敷かないのか。なぜ、補習を行わないのか。なぜ、定期テストを期末しか行わないのか。その理由をきちんと述べた上で、いかに先生の授業のための準備時間を確保するか。これがこれからのカリキュラムマネジメントで最も求められていることだ。

何も、授業以外に付随する取り組みを全てやるなと言っているわけではない。やるならやるで、何を削るかだ。取捨選択が必要なのだ。

そして、学校を選択する受験生や保護者も、学校に全てを求めすぎることが、逆に学校の質を下げかねないことを、理解すべきである。


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